大阪大学大学院医学系研究科・医学部生体制御医学救急医学(大阪大学救急医学)は、救命救急センターのモデルとされる同大医学部附属病院の「特殊救急部」を祖に持つ。第4代教授として20年ぶりに帰学した織田順氏は、その伝統を守りつつ、新しいスタイルの救急医療に取り組む。また基礎・臨床研究が、患者の救命率を高める治療法の開発だけでなく救急システムの改善にもつながることを、医局スタッフに浸透させるべく心を砕いている。
大阪大学大学院医学系研究科・医学部生体制御医学救急医学
(大阪大学救急医学)
大阪大学大学院医学系研究科・医学部生体制御医学救急医学
◎医局データ
教授:織田 順 氏
医局員:29人
病床数:24床(ICU20床・一般病棟4床)
救急搬送患者数:1600〜1700人/年 (三次救急のみの数)
関連病院:25病院
大阪大学大学院医学系研究科・医学部生体制御医学救急医学は、大阪府の援助を受けて同大医学部附属病院に1967年に開設された「特殊救急部」を原点とする。当時は「交通戦争」と呼ばれるほど、交通事故による死者数が急増していた時期。その頃救急医療は各診療科の医師が持ち回りで担当する形が一般的で、骨折は整形外科医、頭部外傷は脳外科医、腹部外傷は消化器外科医が対応していた時代で必ずしも治療成績は思わしくなかった。これに対し、診療対象を高度な設備と人手を要する重症患者に限定し、搬送されてきた患者は致死的な病態から処置される重症緊急治療を受ける、部署完結的な対応によって救命率を上げることを期待されたのが、後に大阪大学救急医学講座の初代教授となる杉本侃氏率いる特殊救急部だった。
救命救急に特化した特殊救急部は、患者数の増加とスタッフのスキルアップにより対応能力を向上させ、治療成績を上げていった。また症例の蓄積により臨床研究も進み、新しい知見が生み出されていった。特殊救急部は、1975年に制度化された救命救急センターの機能を先取りする存在だった。実際にその後のわが国の初期・二次・三次という救急医療体制に大きな影響を与えた。2001年には高度救命救急センターの指定を受け、現在は都市型のドクターヘリ事業も受託するなど大阪府全域~近畿圏の救命救急医療にも取り組んでいる。
2021年、救急医学講座の第4代教授に就任した織田順氏は大阪大学医学部OBであり、初代教授の杉本氏の薫陶を受けた世代だ。しかし長く東京医科大学に在籍しており、大阪大学への復帰は実に20年ぶりのことだった。
震災をきっかけにクラッシュ症候群の研究に取り組む
織田氏は兵庫県立神戸高校に通っていた頃、大学の文科系学部の進学志望クラスに在籍していた。「子どもの頃の私にとっての医師は、医師家系の人がなるものだと思っていたので、縁遠いイメージでした。幸い病気にもかからなかったため、病院に行く機会もなかったのですが、高校時代に骨折をして整形外科にかかったときから、医療の仕事をなんとなく意識するようになりました」と織田氏は話す。
当時A・B日程で国公立大学を2カ所受験することができたことから、文科系学部と医学部の双方を受験し、結局は大阪大学医学部に入学することに決めた。「医学部を選んだのは救急医療に携わることを意識したためです。入学してみると、救急にしても外科や内科にしても、高校生時代のイメージとは全く違うことに気付きましたが、大阪大学の救急は病院部門としても講座としても画期的かつ独創的である点は印象的でした」と織田氏は言う。
卒業後は同大の救急医学講座に入局し、附属病院で1年間、国立東静病院(現国立病院機構静岡医療センター)で外科研修をした後、1995年に救急医学の基礎研究を行おうと同大大学院に進んだ。その年に第2代教授に就任した杉本壽氏や医局の先輩である田中裕氏(現 順天堂大学浦安病院 院長)には「臨床・研究と、なにより取り組む姿勢を指導していただきました」と織田氏は振り返る。この年は阪神淡路大震災が起きた年で、主に四肢を挟まれて生じるクラッシュ症候群が致死的病態として注目を集めていた。織田氏は研究テーマを同症候群に変更して、その病態解明やリスク因子を明らかにすることに取り組んだ。被害が特に大きかった神戸市は同氏の故郷でもあった。
「クラッシュ症候群では、身体を圧迫しているがれきを取り除いて救助した後、元気だった方が見る見る間に致死的になるのを診て大変ショックを受けました。多くがこのとき急激な高カリウム血症を生じていて、圧迫を解除した後すぐに大量の輸液をして血中のカリウム濃度を低下させることが有効であることが判明したので、病院で患者さんの搬送を待つのではなく、救出現場で対応することの重要性を訴えました。これが2005年のDMAT(災害派遣医療チーム)創設のひとつの要素となっていくのですが、何百年に1度の大災害から将来につながる治療法や救命救急システムを生み出すことに関われたことが、研究の社会への還元を強く意識する機会となりました。この体験を医局スタッフと共有して、我々の役割を再確認していきたいと考えています」と織田氏は意気込む。
学位取得後、織田氏は米国のバージニアコモンウェルス大学のメディカルカレッジオブバージニアに留学した。研究テーマはクラッシュ症候群と一見異なる、腹部コンパートメント症候群だ。コンパートメント症候群は四肢をけがした際などに血行が阻害されるものがよく知られているが、四肢ではなく体幹部の出血などにより腹腔内の圧が高まった際には全身性の循環不全から致死的となる病態であり、腹部コンパートメント症候群として知られている。織田氏は留学によって、同症候群の急性・慢性病態に関する多くの知見を獲得することになった。
研究を終えて帰国した織田氏は、一転して国内で最も多くの重症熱傷患者を診療している社会保険中京病院(現JCHO中京病院)救急科に派遣され、どっぷりと臨床に浸かることになる。しかしそこで日々、重症熱傷の患者を診ていく中で、織田氏は留学先で研究していた腹部コンパートメント症候群の病態がまさに発生し、予後に大きく関わっていることに気が付いた。非侵襲の検査によって様々なデータを収集し、熱傷患者における腹部コンパートメント症候群の発症リスク因子を明らかにし、さらには治療・予防法までを明らかにしていった。手応えを感じた織田氏は、大学との約束だった3年の派遣期間をさらに2年延長することを申し出て研究に取り組んだ。
この研究に一区切りが付いたとき、医局の大先輩である行岡哲男氏(現・東京医科大学名誉教授)から東京医科大学に誘われた。そして同大病院の救命救急センターで救急医療の現場に立つとともに、医局員の研究指導などを担当した。「当初は3年間の予定で東京の空気を吸ってくるという話でしたが、診療・教育・研究に没頭している間に15年が経っていました。東京医科大学の救急・災害医療分野の主任教授に就任してからは、論文のテーマも救急マネジメントに関することが増えていきました」(織田氏)。
自己完結的に救急患者に対応しつつも他科との連携を強化
そして前述したように2021年、20年ぶりに大阪大学に帰還した織田氏は今、新たなスタイルの医局運営に取り組んでいる。
もともと大阪大学の救急医学講座は、自己完結的に救急医療に対応してきた特殊救急部の伝統から、救急科以外に整形外科や脳外科などの専門医資格も併せ持つ医局スタッフが多数在籍する。いったんは救急医学講座に所属しながらも、専門医取得のため整形外科や脳外科に移り、専門医取得後に救急医学講座に戻る仕組みが機能しているからだ。「歴史的な経緯から、複数の診療科の専門医を目指す医師が集まってくるという特殊性に支えられた医局と言えるかもしれません」と織田氏は話す。
しかし、所属する医師を囲い込むような閉鎖的な医局ではない。むしろ専門医取得のため他の診療科に移った医局スタッフの人脈を活用し、診療科間連携を強化するのが織田氏流の医局運営術だ。「カンファレンスは他の診療科と合同で開催し、各科の専門的な意見を尊重しています。手術などの治療でも医局のスタッフだけでは対応しきれないこともあり、各科の医師の応援をお願いしています。院内の全診療科との連携を大切にしています」。こう語る織田氏はまた、厚生労働省や大阪府とも積極的に人事交流を進め、ここでも連携を強化している。
救急医学講座の入局募集数は毎年10人。織田氏は「『そんなに同期がたくさんいたら経験できる症例数が少なくなるのでは?』という心配は無用です。豊富な関連病院とのネットワークがあるため、この人数でも十二分の研修が受けられます。時間外に『仮眠を取るからあとは任せた』と言うような無責任なスタッフもいません。『こんなときはこう考え判断するんだよ』と、状況に即した処置を実践して見せてくれる先輩が待っています」と言う。
織田氏は、自身が所属してきた東京医科大学と大阪大学における救急医学講座の特徴を次のように説明する。「東京医科大学は素晴らしいハイボリュームセンターで、臨床力とともにおのずと臨床研究が進む状況にありました。大阪大学では、重症度の高い救急患者さんを多く受け入れており、臨床研究とともに、重症病態を対象とした基礎研究も積極的に進めています」。
また、織田氏はこうも付け加える。「私自身がそうでしたが、基礎研究をしたら関連ある臨床研究をして、さらに疑問が湧いたら基礎研究に戻るといった具合に、基礎と臨床を行ったり来たりしながら自分の興味ある分野を深めていくことが、医師としての充実度を高めさらには臨床力も磨いていくはずです。その意味で大阪大学の救急医学講座は、研究に興味を持っている若手医師はもちろん、臨床を本当に極めたい医師にもぜひ選んでほしい医局です。スタッフそれぞれがやりたいこと、なりたい自分を実現できるよう環境整備に努めています」。
医師の働き方改革を達成する上でも、他科との連携は重要になる。勤務シフトの編成に当たっては、救急医学講座に所属する各科の専門医だけでは均等に配置することが難しかったが、この2年でスタッフは増員された。「土日を含め連続勤務を行わなくて済むよう完全シフト制に移行していて、かつ研究にも取り組める体制が整っています」と織田氏は言う。
連携の範囲は、診療科の枠を超えて基礎医学にも及ぶ。救急医学講座では、臨床研究は医局専従スタッフにより指導しているが、基礎研究を指導できるスタッフばかりではない。そこで大阪大学の一流の基礎医学講座とのコラボレーションが盛んに行われている。特に、免疫系などの講座は規模が大きく、連携による研究の進展も速いという。「救急医学は、外界からの刺激や侵襲に身体がどう反応するか、またそれをどう制御するか、を命題とする学問なので、免疫学とオーバーラップする部分が多いのです」と織田氏は語る。
また織田氏は、体質や遺伝子に関する知見を救急医学に取り入れることへも意欲的だ。「意識障害があり既往症も分からない救急の患者さんは少なくありません。それぞれの遺伝子変異やパーソナルヘルスレコード(PHR)が搬送された時点ですぐ分かるようになれば画期的ですね。大阪大学医学部附属病院は「AI(人工知能)ホスピタル」を目指していますし、医療情報部のスタッフもみなPHRに興味を持っています。我々の医局もこれに対応していく必要があると考えています」。
縁の大切さを胸に診療・研究・教育に当たる
「大学院で学んだクラッシュ症候群、留学先でテーマに据えた腹部コンパートメント症候群、そして中京病院で診療に没頭した重症熱傷──。それぞれの研究がつながったのは偶然かもしれませんが、今は、考え方・感じ方のご指導を受けた杉本先生のおかげではないかと感じています」。こう語る織田氏は「私自身も、そのような形で医局スタッフと関わっていければ、と思っています」と言う。
実は杉本氏の紹介で、大学院生時代に南氷洋海底の資源調査をする観測船の船医を経験した織田氏。「大震災の後で、乗船している地質学者と当時災害医療をテーマにしている私は、にわかに世間の注目を集めた同士ということで意気投合して、互いの知見を船上で、また下船後も学び合う貴重な体験ができました」と振り返る。この船医募集を杉本氏に委ねたのが、織田氏を東京医科大学に誘った行岡氏であることを後に知った織田氏は、縁の不思議さと大切さを胸に、日々の診療や研究、教育に当たっている。
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織田 順(おだ・じゅん)氏
1993年大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部附属病院特殊救急部、国立東静病院、メディカルカレッジオブバージニア留学、中京病院、東京医科大学病院救命救急センター主任教授などを経て、2021年より現職。