筑波大学医学医療系膠原病リウマチアレルギー内科学助教の三木春香氏は、医師の夫、2人の子どもとともに4年半、米国に留学していた。中学生の頃、父の留学でドイツに滞在したことがあり、自身が研究者として家族で留学することに憧れがあったという。夫婦それぞれが受け入れ先のラボを見つける必要があったため、様々な分野の研究施設が多く集まるサンディエゴ(ラ・ホヤ)に。夫婦で留学したことで、家族の絆が深まり、帰国後の家族の生活にも良い影響が出ているそうだ。女性医師に向けて、「留学したい気持ちがあるなら諦めないで」と話す。
筑波大学医学医療系 膠原病リウマチアレルギー内科学
2008年筑波大学医学専門学群医学類卒業、筑波大学附属病院初期研修医。2010年筑波大学附属病院膠原病リウマチアレルギー内科入局。2011年筑波大学大学院博士課程人間総合科学研究科入学。2014年日本学術振興会 特別研究員 DC2。2016年筑波大学医学医療系助教。2017年日本学術振興会 特別研究員RRA、La Jolla Institute for Allergy and Immunologyへ留学。2022年より現職に復帰。
――留学期間と留学先について教えてください。
三木 2017年9月から2022年3月までの4年半、米国カリフォルニア州サンディエゴのラ・ホヤにある非営利の研究機関、ラ・ホヤ免疫研究所(La Jolla Institute For Immunology;LJI)に留学していました。LJIは14~15人の男性PI(Principal Investigator)、5~6人の女性PIのラボで構成されています。規模は小さいのですが、免疫学の分野では世界的に有名な研究施設です。私の留学先は、マイケル・クロフト先生(Michael Croft, Ph.D., Director, Academic Affairs, Professor, Center for Autoimmunity and Inflammation, La Jolla Institute for Immunology)のラボでした。
――どういった経緯でLJIに留学したのですか。
三木 トップレベルのラボでアレルギーの基礎研究をしっかりやりたいと考え、海外留学する道を選びました。また、私の夫も医師なのですが、2人でうまくタイミングを合わせて、家族一緒に留学したいと考えました。それを実現するためには、2人それぞれが留学先を見つける必要がありました。夫はまだ大学院在学中でしたが、家族で留学することを前提に、留学先を探しました。
大学院博士課程で指導していただいた免疫学研究室・教授の渋谷彰先生が、当時LJIのPresidentだったミッチエル・クローネンベルグ先生(Mitchell Kronenberg、現チーフ・サイエンティフィック・オフィサー)と懇意にされていたので、私から渋谷先生にお願いし、渋谷先生からクローネンベルグ先生へ、さらにクローネンベルグ先生を通じてクロフト先生に、留学生の受け入れが可能かどうかを打診していただいたのです。クロフト先生に話を通していただいたのは、私の大学院での研究テーマがクロフト先生の研究テーマと、とても近かったからです。クロフト先生はTNFファミリーサイトカインの幾つかを発見された業績などで知られる、この分野では有名な研究者です。英国人ですが、LJIで長くTNFサイトカインの研究を続けていらっしゃいます。
クロフト先生から「日本で奨学金が獲得できたなら受け入れ可能ですよ」との返事がもらえ、日本学術振興会の「海外特別研究員──リスタート・リサーチ・アブロード(RRA)」制度の奨学金が運よく獲得できたことから、LJIへの留学が正式に決まりました。ちょうど留学の1年前くらいのことです。
休職経験がある研究者の海外留学をサポートするRRA奨学金を活用
――RRAはどういった趣旨の奨学金なのですか。
三木 出産・育児、看護・介護などで研究を中断したことがある研究者の海外留学を支援する奨学金です。期間は最長で2年間です。応募者の多くは女性ですが、男性からの応募も結構あるようです。
出産・育児などで研究を一端中断せざるを得なかった人は、そういったライフイベントがなかった人に比べて、研究業績を上げるのが難しいことが多いです。その場合、海外留学をしたいと考えても、希望のラボで有給のポジションを得ることや、一般的な奨学金を獲得することが困難になりがちです。RRAの奨学金は、そんな問題を抱える研究者を支援する趣旨で設立されたものです。実際に私もRRAの奨学金を受けて、留学資金面ですごく助かりました。滞在期間の大半は私と夫の奨学金で、米国滞在の費用をほぼ全て賄うことができました。
――RRAの奨学金を獲得するのは難しいのでしょうか。
三木 RRAは2016年創設の比較的新しい奨学金制度で、奨学金が獲得できるのは毎年5人ほどです。私の医局や大学院の所属研究室では、この奨学金を獲得して留学している女性研究者が何人もいます。私が応募した当時はまだ倍率が低かったのですが、最近は応募する人が増えてきているようです。
――RRA奨学金を獲得するコツはありますか。
三木 大学院での業績は、ある程度、必要だと思います。ですから大学院で基礎研究にしっかり取り組んでおくことが大切です。私は大学院在席中に2人の子どもを出産したのですが、研究室のサポートをいただいて休みを取りつつ、最後まで研究をやり遂げました。あとは、将来的なキャリアのビジョンをしっかりアピールすることでしょうか。
――女性医師にとっての海外留学は、どのような意味があると考えますか。
三木 男女問わずですが、大学のアカデミアに残るためには、基礎研究で業績を上げることが重要です。しかし日本で臨床医をやっていると忙しくて、基礎研究に集中して取り組む時間がなかなか取れません。そういった意味で、海外留学して基礎研究の時間がたっぷり取れる期間を作ることは、女性医師に限らず有意義なことだと思います。
――医局は、女性の海外留学についてどういった対応でしたか。
三木 私が所属する筑波大学の医局(留学当時:住田孝之教授、現:松本功教授)では、男女関係なく快く海外留学に送り出してくれます。私の前にも後にも、海外留学している女性医師がいます。もちろん、絶対に行きなさいということではなくて、海外で研究したい人はサポートしますよ、という体制です。
父の留学でドイツ滞在を家族で経験、今度は母として家族で米国に
――海外留学したい気持ちは、夫婦のどちらが強かったのですか。
三木 私の方が強かったです。私の父は脳神経外科医で、ドイツのマックス・プランク研究所に2度留学しています。1度目は現地で家族が増え4人になり、2度目は家族5人で渡航しました。1回目の留学は私が3歳の頃だったのでほとんど記憶がないのですが、2回目は中学1年生の頃でよく覚えています。研究所は研究者の家族にもフレンドリーで、気軽に父の研究室を訪ねることができました。家族ぐるみで交流できる和気あいあいとした研究所の様子がすごく印象的で、「今度は自分が研究者として、あの時のような研究生活を送りたい」という憧れをずっと抱いていました。
夫も子どもの頃、3年ほど英国で暮らしていた時期があり、海外留学には興味があったようです。私が海外留学をしてみたいと希望を話すと、「将来、家族みんなで行けるといいね」と言ってくれていました。
――先生のパートナーは、脳神経外科医の三木俊一郎先生(筑波大学脳神経外科)ですね。基礎研究で留学することと臨床を長期離れることについては、どう考えていたのでしょうか。
三木 夫は大学院の博士課程でやっていた膠芽腫の基礎研究を、もう少し力を入れてやってみたいとは考えていたそうです。ただ、外科医としては長い期間、手術から離れることには抵抗もあり、具体的に留学について夫婦で話し始めた段階ではまだ大学院生だったこともあって、すぐに夫婦で基礎研究留学をすることにはそれほど乗り気ではありませんでした。最終的には、「家族みんなで海外で暮らしてみるのもいい経験かな」と決断してくれました。
――留学先での、お子様の学校や保育園の確保はスムーズでしたか。
三木 上の子がちょうど7歳になる年だったので、9月に現地の公立のエレメンタリー・スクールに入学できるタイミングで渡米しました。下の子はまだ2歳だったので保育所に預ける必要がありました。保育所探しが大変と聞いていたのですが、やはり条件の良い保育所は1年待ちの状況でした。ですから本命の保育所に空きが出るまで個人のお宅でやっているホームケアに入れてもらったりしていました。
受け入れ先を急いで探さないといけない状況で、個人のホームケアでは受け入れに当たって日本人医師の子どもであることは有利に働いた印象があります。日本では自分の職業を前に出す機会は少ないですが、外国では自分の身分や職業を伝えることが必要になる場面もあることを実感しました。米国でも、保育所の確保には時間がかかります。1年待っても空きが出ないことがあるので、小さいお子さんを連れて留学する場合には、早めにウエート・リストに登録しておくことをお勧めします。
――医療保険はどうされましたか。
三木 奨学金をもらっている間はラボからは給料が出ない契約だったので初めは個人で医療保険に入ることも検討していましたが、医療保険だけはラボ側の負担でお願いできないかと交渉した結果、充実したLJIの保険に子どもも含め入ることができました。給料がラボから支払われていない研究者の医療保険加入は、直接交渉次第のようです。断られるケースもあると聞いていますが、クロフト先生は快く応じてくださって本当に助かりました。
――渡航前の準備について、他にアドバイスはありますか。
三木 ラ・ホヤは米国内では治安が良い地域とされていますが、その中でもより治安が良い場所と、そうではない場所があります。事前に治安や子どもの学区の情報などをしっかり得て、居住地を選ぶといいでしょう。現地に住んでいる、あるいは住んだことがあるお友だちや知り合いがいれば、話を聞いてみるとよいと思います。私たちは、現地に先に留学していた同級生家族に細かい情報を教えてもらったり、実際に渡米後に助けてもらい大変ありがたかったです。
3年目から有給のポスドクに、4年目には「インストラクター」に昇格
――奨学金は2年間とのことでしたが、3年目以降はどうされたのですか。
三木 3年目からはクロフト先生のラボに有給のポスドクとして採用され、最後の1年は「インストラクター」に昇格しました。インストラクターというのはポスドクの1つ上のポジションで、LJIでは主に、論文を出し、PIとして独立を目指したりなど次のポジションへステップアップを図る研究者が就くポジションでした。各ラボに大体1-2人はいて、給料もポスドクよりちょっと上です。
仕事の内容としては、自身の研究に加えて、他のポスドクの指導やラボのマネジメントを任されました。そのため研究に充てる時間が若干減ってしまいましたが、クロフト先生と話す機会がたくさん得られ、グラント申請書類の書き方なども直接指導していただけたので、良い経験になったと思っています。
――留学期間は最初から4年半と考えていたのですか。
三木 いえ、子どもの教育などを考慮して、当初は3年程度の予定でした。しかし3年目から4年目にかけて新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起こり、予定が狂いました。2020年春から丸1年間、子どもたちは登校できず、自宅でオンライン授業を受けることになったのです。その1年間は夫と私が2交代制で子どもたちをケアしました。私は午前担当で、子どものオンライン授業の面倒を見て、お昼ごはんを食べさせ、午後から夜にラボに出勤していました。夫は昼過ぎにラボから帰ってきて、午後に子どもたちを運動させ、夜まで子どもの面倒を見ていました。
一応、細々と研究はできたのですが、当初の予定の3年間では研究プロジェクトが完遂できない見込みになりました。また、医局復帰に適したタイミングについてもお互い話し合って、滞在を1年半延長することにしました。
肺のアポトーシス細胞がアレルギーを抑えるメカニズムなどを解明
――留学先での研究内容について教えてください。
三木 大きく2つの研究プロジェクトに取り組みました。RRAの奨学金をもらった前半2年間は、肺のアポトーシス細胞が、どのようにアレルギーを抑制するかの解明に取り組みました。クロフト先生のラボでは私が留学する前に、肺にたまったアポトーシス細胞をマクロファージなどが貪食して掃除することにより、アレルギーが抑えられることを明らかにしていました。私はその現象が、どんなメカニズムで起こるのかの解明をテーマに研究を進めました。
研究の結果、マクロファージがアポトーシス細胞を貪食した際に、マクロファージが出す重要なファクターを見つけることができました。そのファクターがアデノシン受容体シグナルを誘導し、アレルギー抑制に関与していることが分かりました。この研究内容は既に論文発表しています。
RRAの研究プロジェクトが終了した後、留学3年目から取り組んだのは、「TNFSF14(通称LIGHT)」というサイトカインが、気道の平滑筋においてどんな役割を演じているのかを解明する研究プロジェクトです。喘息の人の体内にアレルギー源が入ってくると、気道がキュッと収縮する過敏性が起こります。その現象にLIGHTが関与しているのではないかと考えて、メカニズムの解析を進めました。こちらのプロジェクトは現在も進行中で、クロフト先生と連絡を取りながら日本でも研究を続けています。
――留学先での研究テーマを筑波大学に持ち帰ることができたのですね。
三木 はい。クロフト先生が「帰国後も共同研究としてプロジェクトを続けましょう」と言ってくださったのです。必要な研究資材を日本に持ち帰ることも許可していただけたので、現在、実験動物や試薬を日本に送ってもらう手続きを進めているところです。
留学前から、留学中に手掛けたプロジェクトを帰国後も続け、発展させられたらいいなと考えていました。ただ、研究プロジェクトの成果は基本的にラボに帰属するので、認められるかどうかは研究施設とPIの判断によります。クロフト先生には、とても感謝していますし、研究の継続を許可してくださった松本教授にも感謝しています。
コロナ禍の状況下で始めたテニスが家族共通の趣味に
――夫婦で留学したことで、家族に何か変化はありましたか。
三木 夫は脳外科医で私以上に忙しく、留学前は家族そろって一緒にご飯を食べることがほとんどできませんでした。米国留学中は時間に余裕ができ、休日に家族みんなで遊んだり、旅行に行ったりすることもできました。家事も育児も2人の共同作業として分担していました。そのような時間を過ごしたことで、夫は家族生活についての意識が変わったようです。米国留学中と同じとまではいきませんが、帰国後も家族と過ごす時間をなるべくたくさん作るよう努力してくれています。
――留学先では、週末や休日をどのように過ごされたのですか。
三木 週末には、家族で街中やトレッキングロードを散歩しました。「ラ・ホヤ」はスペイン語で「宝石」の意味なのですが、海が本当にきれいです。夕方、家族みなでビーチに行って、美しい夕日を眺めたのを思い出します。
少し長い休みが取れたら、家族でロード・トリップに出かけました。特に思い出に残っているのは、グランドキャニオン、デスバレー、イエローストーンなどの国立公園です。デスバレーの夏の気温は50℃ほどになります。米国でいちばん暑い場所とされ、本当に人が住めない自然環境なのですが、白い砂漠が異世界みたいで楽しかったです。イエローストーンでは、我が物顔で道路を歩く野生のエルクやバイソン、グリズリーベアなどに出合いました。私たちが遭遇した子連れのグリズリーベアは特に気が立っていて凶暴なので、レンジャーからは、「すぐに車に逃げ込めるところ以外では、絶対に車を降りてはいけません」と念を押されました。子どもたちはバイソンやグリズリーベアを見るのは初めてで、興奮して「大きな動物がいっぱいいる!」と大喜びでした。
留学3年目は新型コロナのパンデミックで外出が制限され、家族旅行にはほとんど行けませんでした。そこで他人と接触せずに行えるレクリエーションとして、家族4人でテニスを始めました。サンディエゴの賃貸アパートには無料で借りられる共有プールやテニスコートが併設されていることが多く、私たちのアパートにもテニスコートが付いていたのです。夫はもともとテニスが趣味でしたが、子どもたちは全くの未経験から始めて、帰国までにすごく上達しました。帰国後も、ときどき家族でテニスを楽しんでいます。コロナ禍では様々な不便がありましたが、家族共通の趣味ができたことは良かったことの1つです。
――最後に、留学を考えている医師、特に女性医師に向けてアドバイスをお願いします。
三木 一番に伝えたいのは、本当に行きたい気持ちがあるならば、海外留学を諦めないでくださいということです。確かに、実現に向けてハードルは高いと思いますが、ぜひ行ってほしいです。
パートナーが一緒に留学することに同意してくれるかどうかが最初の関門だと思いますが、しっかり話し合ってみてください。私の夫は当初、臨床留学希望で、大学院在籍中に基礎研究で留学することに最初はそれほど乗り気ではありませんでしたが、最終的には一緒に留学することを決めてくれました。夫婦で留学し、悩みを相談したり愚痴を言い合ったり、当たり前のように家事・育児を分担したりする生活を経験すると、家族の絆はより深まると思います。私たち家族にとっても、留学期間はなくてはならないものでした。
留学資金もハードルの一つになると思いますが、今回紹介したように女性研究者を支援する奨学金が増えてきているので、それらをうまく活用するとよいと思います。
夫婦で留学する場合、留学先としてサンディエゴ(ラ・ホヤ)はお勧めです。様々な分野の研究施設が多数集まっているので、夫婦で専門分野が違っても、それぞれの受け入れ先を見つけやすいと思います。また、米国の都市としては治安が良く、日本人の大きなコミュニティがあり、日本人学校、日系のスーパーマーケットなども充実しているので、子ども連れでも安心して生活できます。
米国では、子育てしながら働く環境が整っているので、出産から2カ月くらいで職場復帰する女性研究者がたくさんいます。保育所さえ見つかれば、「子供がまだ〇歳だから留学は難しいのではないか」などと考えなくても大丈夫です。留学がスタートするまでの準備は大変ですが、行ってしまえば米国は、子ども連れでもすごく働きやすいです。繰り返しになりますが、行きたい気持ちがあるならば諦めず、ぜひ海外留学の実現を目指してほしいと思います。
米国留学を機に多発性骨髄腫を専門領域にしようと決意
2023.01.16
米国留学での経験が帰国後の独自研究の土台に
近藤 豊(こんどう ゆたか)氏
2006年沖縄県立中部病院初期研修医。2008年聖路加国際病院後期研修医。2010年琉球大学大学院医学研究科救急医学講座助教。2013年同講師。2013年琉球大学医学部附属病院救急部副部長。2015年Research fellow, Beth Israel Deaconess Medical Center, Harvard Medical School。2018年より順天堂大学医学部附属浦安病院救急診療科准教授、順天堂大学大学院医学研究科救急災害医学准教授。2021年からは同大学院医学研究科救急AI色画像情報標準化講座の准教授を兼務。