米国で基礎・臨床研究を経てクリニカルフェローとして臨床へ

昭和大学医学部整形外科講師の岡野市郎氏は2017年に渡米して、米国での留学をスタートした。1年目は基礎研究を行い、2年目から臨床研究を手掛け、4年目に留学当初の希望だった臨床留学を実現させた。運が良かった側面もあると振り返るが、基礎研究と臨床研究に懸命に取り組んだことが結果的に臨床への道を開いたようだ。

昭和大学医学部 整形外科

岡野 市郎(おかの・いちろう)氏
2004年筑波大学卒。2007年太田西ノ内病院(後期研修医)、整形外科専門医取得後2017年まで同病院に勤務。2012年4〜6月AOTrauma Fellow, Auckland City Hospital (Auckland, New Zealand) 。2017年3月〜2018年3月Roswell Park Comprehensive Cancer Center(Buffalo, NY,USA), Research Scholar。2018年4月〜2020年3月Hospital for Special Surgery(New York, NY、USA), Spine Surgery, Research Fellow。2020年4〜7月昭和大学整形外科。2020年8月〜2021年9月Hospital for Special Surgery, Spine Surgery(Multi-specialty Spine Care and Surgery), Clinical Fellow。2021年昭和大学整形外科助教。2022年4月より現職。

──留学期間と留学先から教えてください。 

岡野 2017年3月から2021年8月まで、約4年半米国に留学していました。まず2017年3月から2018年2月まではニューヨーク州バッファローの研究所ロズウェル・パーク・キャンサー・インスティチュート(現・ロズウェル・パーク・コンプリヘンシブ・キャンサー・センター)で基礎研究をしました。その後、2018年3月から2020年3月まではニューヨーク市にあるHSS(ホスピタル・フォー・スペシャル・サージェリー)で臨床研究をやり、2020年8月から2021年8月までは同じくHSSでクリニカルフェローとして臨床(主に手術)をしました。 

──米国に留学して、基礎研究、臨床研究、臨床を全て経験されたのですね。かなり珍しいケースだと思いますが、経緯を教えていただけますか。 

岡野 私の妻は乳腺外科の医師です。まず妻が、ロズウェル・パーク・キャンサー・インスティテュートに留学することが決まりました。妻と当時は幼稚園児だった子どもの2人だけで渡米させるのは不安でしたし、私も従来から海外留学してみたい気持ちがあったので、急きょバッファロー近郊で留学先を探しました。しかし受け入れ可能な施設があまりなく、最終的に、妻と同じ研究所でリサーチフェローとして働くことになったのです。研究内容は乳がんの骨転移の基礎研究でした。 

バッファロー市は米国北東部に位置する人口約27万人の中規模の都市で、カナダとの国境までは自動車で1時間半ほどです。米国滞在1年目は、子どもと一緒にブルーベリー摘みに行ったり、プロスポーツの観戦に行ったり、冬は大変雪深い土地ですが凍っている荘厳なナイアガラの滝を観に行ったりと、家族との生活を楽しむことができました。 

──家族で一緒に暮らすことを重視して、最初の1年はご自身の専門と違う分野の基礎研究をやることにしたのですね。 

岡野 そうですね。それまで基礎研究はほとんどやってこなかったので、実験手技を習ったり、自分で勉強したりと一生懸命取り組みました。しかし、同じ骨に関連することとはいえ、研究のアプローチの仕方も異なり、次第にモチベーションの維持が難しくなってきました。「自分が米国でやりたいことは、これじゃないな」と。それで改めて、新しい仕事のポジションを探し始めたのです。やりたいことの希望としては、1番は整形外科の臨床、2番目は整形外科の臨床研究、3番目に整形外科の基礎研究でした。 

──どのようにしてHSSでポジションを得たのですか。 

岡野 当医局、脊椎外科センター教授の豊根知明先生に紹介していただいたのです。私は留学前、太田西ノ内病院(福島県郡山市、髙橋皇基院長)に勤務していました。同病院の整形外科は当医局の関連施設です。私は当時、医局には所属していませんでしたが、大学病院で手術見学をさせていただいたこともあり、豊根先生とは前々から面識がありました。 

そういう経緯もあり、2017年暮れから2018年初めにかけて一時帰国した際、昭和大学に立ち寄って、豊根先生に米国で新しいポジションを探していると相談しました。当時、医局からの派遣で白旗敏之先生(現・昭和大学江東豊洲病院整形外科教授・診療科長)がHSSに留学しており、翌年に帰国する予定でした。次に行く人もいないということで、豊根先生が私を紹介してくださり、2018年3月からHSSに留学することになったのです。 

──HSSはニューヨーク市にある整形外科分野で有名な病院ですね。岡野先生はニューヨーク市に転居、奥様はバッファローに残られてお子様と2人暮らしになったわけですか。 

岡野 そうですね。バッファローとニューヨーク市は同じニューヨーク州とはいえ、飛行機で1時間ほど、電車や自動車だと6〜7時間の距離です。妻の留学期間は2年間だったので、残りの1年間は平均して1~2カ月に1回、私がニューヨーク市からバッファローまで家族に会いに行きました。できるだけ家族と長く過ごすために、金曜日の夕方にニューヨーク市を立って、月曜日の早朝にニューヨーク市に帰って来るといった生活をしていました。 

妻は1人で子どものケアをしながら研究することになり、苦労したと思います。ただ、最初の1年間でバッファローでの生活の基盤をしっかり作れていたので、どうにか妻も留学を完走できました。子どもの保育については、幼稚園が終わった後、幼稚園のバスで時間外保育の施設まで送ってくれるシステムがあり助かりました。 

もちろん理想的な形ではありませんが、他に方法がありませんでした。夫婦それぞれがキャリアを積んでいくために、時には妥協も必要です。言語も習慣も異なる米国で厳しい状況をどうにか乗り切ったことは、私たちにとっていい経験というか、人生勉強になったと思っています。 

ニューヨーク市のHSSに移籍、臨床研究に取り組む 

──HSSではどのような活動をされたのですか。 

岡野 立場はクリニカル・リサーチ・フェローで、活動内容は主に手術見学と臨床研究でした。最初は手術見学が多かったのですが、臨床研究の仕事をやり始めたら軌道に乗ってきて、そちらがメインになりました。当初は無給でしたが、仕事が評価されたためか、途中から給料ももらえるようになりました。 

──臨床研究の様子、内容を教えてください。 

岡野 HSSの脊椎外科グループの中に臨床研究専任のチームがあります。私はそのチームに属して、脊椎外科グループがこれまでに蓄積したデータを使って臨床研究を行いました。具体的な作業内容は、データ取得、データ解析、論文執筆などです。 

研究統括者は脊椎外科部門の指導医(アテンディング・フィジシャン)の1人で、研究チームのメンバーは、専任のコーディネーター1人と私を含め数人のリサーチフェローや医学生でした。リサーチフェローにはいろいろな背景の人がいました。私のような留学生の他、米国の大学医学部を出た後、レジデントに応募する前に業績を積もうとリサーチフェローをやっている人もいました。統計解析は専任の生物統計学者が行っていましたが、常時オーバーワークなので、私はバッファロー時代にかなり集中して勉強していたこともあり自分でやっていました。結果として、いろいろなプロジェクトの相談が来るようになり業績につながりました。 

HSSで手掛けた臨床研究はたくさんあるのですが、印象に残っているのは、腰椎の後方固定術後の骨密度に関するものです。脊椎外科グループが持っているデータの中から、該当するQCT(Quantitative Computed Tomography)のデータを抽出して解析しました。QCTを用いて測定すると、脊椎固定術後に隣接椎体の骨密度が10%強低下したという結果を論文にまとめました(https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32170396/)。これは通常の加齢の影響でいえば閉経後女性で10年分になります。徐々に回復はするのですが、数年たっても影響は持続していました。この研究は、帰国後に日本での臨床研究や研究費獲得にもつながっており、私にとって特に意義深いものでした。 

臨床研究に取り組んだ2年が「保証人からの推薦状」代わりになった 

──HSSで臨床研究を2年間手掛けた後、今度はクリニカルフェローとして臨床をされていますね。どういった経緯だったのですか。 

岡野 HSSで働き始めた最初の段階で、「可能であれば臨床がやりたい」と伝えてはいたのです。そのときは「今はそういった制度がないから無理だけど、インターナショナル・クリニカル・フェローシップが準備中なので、制度ができたら応募してみたらどうか」と言われていました。ほぼ2年たった頃、制度ができたとアナウンスがあり、応募することを決めました。 

──1番の希望だった臨床のチャンスが巡ってきたわけですね。 

岡野 正直なところ、応募するかどうか迷いました。私はその頃、臨床研究にすごく力を入れていて、結果も付いてきていたからです。「このまま臨床研究だけで米国留学が終わってもいいかな」と思い始めていたのです。 

クリニカルフェローは、あくまでも主治医の徒弟です。治療方針の決定権はありません。私が卒後7〜8年目くらいの医師だったら、手術件数が稼げる米国のクリニカルフェローのポジションは魅力的だったと思います。しかし当時の私は既に、指導医の資格も取っていました。米国の医師の手技は手術見学でも十分に学べたので、あえて助手をやる意味があるのかなと悩みました。 

──応募することを決めたのはなぜですか。 

岡野 米国で臨床をやるチャンスは誰もが得られるものではないし、実際にやってみないと分からないこともあるだろうと考えて応募を決めました。 

──インターナショナル・クリニカルフェローの応募条件はどうなっていたのですか。 

岡野 まずUSMLE(米国医師国家試験)の1から3の全てのステップを取得していること、日本の整形外科専門医資格を持っていること。米国の整形外科専門医に匹敵する技能を持っていることの証明書類が必要でした。米国のどの施設でも同じだと思います。最後の証明書類に関して、具体的には、どこの病院でどんな手術を何例やったかという内容の書類を、診療部長のサイン入りで提出しなければなりませんでした。私はほぼ単一の施設だったので苦労は少なかったかもしれませんが、大学医局で関連施設を多数ローテートされた人は大変だと思います。 

英語については、私のときは特に個別の条件はありませんでした。当時はUSMLE のCS(クリニカル・スキル:問診と診察の実技試験)が行われており、それをパスしていることが英語力の証明になりました。私は日本にいる間にUSMLEのステップ1と2CK(クリニカル・ノウレッジ:臨床医学の知識を問う筆記試験)までを取得し、渡米1年目(2017年)にステップ2CSとステップ3を取得していました。 

あとは推薦状です。これが最大のハードルで、日本から米国への臨床留学が難しい理由はこの点にあるといえます。米国人ではない人がUSMLEでどれだけ良い点を取っても、いきなりインターナショナル・クリニカルフェローとして雇ってもらえることは、まずありません。 

例えば、米国のしかるべき医師、もしくはフェローシップのプログラムディレクターと強いコネクションある人物が推薦状を書いてくれるとともに、プログラムディレクターに直接連絡をして、「この人は間違いない人物です。英語のコミュニケーション能力も問題ありません。ぜひクリニカルフェローとして雇ってください」と推薦してもらえれば、採用を検討してもらえるかもしれません。 

私の場合は、採用する側の指導医の下で2年間、臨床研究をして成果も上げていたので、それが保証となり、脊椎外科のクリニカルフェローとして採用されたのだと思います。2020年の4月にいったん帰国してビザの更新や必要書類の準備などをして、本来8月から新しい仕事に就く予定だったのですが、州の免許が間に合わず9月からHSSで臨床を開始しました。

HSSの医局での休憩中の一コマと、ネームプレート。クリニカルフェローになってリサーチフェロー時代にはなかった「MD」が記載されるようになった。(岡野氏提供)

手術チームの一員として週10~15件の脊椎手術を担当 

──HSSのクリニカルフェローの給料はどれくらいなのですか。

岡野 クリニカルフェローの給料は施設の所在地でだいたい決まります。ニューヨーク州では年間約10万ドル、当時のレートで1200万円くらいでした。HSSのリサーチフェローの給料は約6万ドルでしたから、それに比べると良いですが、物価が非常に高いのでそれほど余裕があったわけではありません。 

──クリニカルフェローの仕事の内容について教えてください。 

岡野 主な仕事は手術の第一助手でした。ほぼ執刀医として手術したのと変わらないくらいに任せてもらうこともありましたが、HSSは公式にレジデントやフェローが執刀医になることはできません。第一助手といっても脊椎は左右対称なので、半分は執刀医と同じことを助手がやります。よくある流れは、展開をフェローが一人でやって、固定器具を入れるときに指導医が入ってきて半分ずつやって、閉創もフェローが1人でやるという形です。止血等に手間取って展開に時間がかかると、展開が終わる前に指導医が入ってきてしまうため、そうさせないように努力しました。 

私は、脊椎外科チーフのアンドリュー・A・サマ先生(Andrew A. Sama, MD:Co-Chief of Spine Surgery Hospital for Special Surgery )、同じグループの指導医であるフェデリコ・P・ジラルディ先生(Federico P. Girardi, MD)、アレクサンダー・P・ヒューズ先生(Alexander P. Hughes, MD)の手術に付きました。回診は毎朝やりましたが、それ以外の病棟業務は分業で別の人たちが担当していました。 

本来は週に1回、外来の研修もあるのですが、私は外来担当の日も手術か研究の日にしてもらっていました。外来は指導医の後ろについて見学するだけで、私にとっては研修のメリットがないと感じたからです。手術の適応などについては、手術前のディスカッションで確認するので特に問題ありませんでした。 

1日のスケジュールとしては、まず朝6時前から自分の患者さんの回診をして、所見を取ってPA(フィジシャン・アシスタント)に申し送りをします。その後、曜日によりますが6時半頃から1時間くらい臨床のカンファレンスに参加して、手術がスタートするのは8時頃からです。1日の手術件数は3〜4件で、週当たり10〜15件くらいになります。手術が全て終わるのはだいたい早くて午後6時か7時頃でした。土日はオンコール待機がなければ完全オフですが、平日の勤務時間は同程度か日本よりむしろ長かったと思います。 

私が留学前に所属していた病院では、担当する脊椎手術件数は年間100件強でした。HSSの外科医の手術件数は1人当たり200〜400件くらいになるので、やはり件数は多いです。なので、サブスペシャルティ領域の手術件数を稼ぐことを目的にして米国でクリニカルフェローになるなら、メリットはあると思います。 

──クリニカルフェローの医療事故の賠償責任保険はどうなっているのですか。 

岡野 よほどひどい場合、例えば薬物等を摂取した状態で仕事をした、故意に行った、などが疑われるようなケースでない限り、保険でカバーされるそうです。掛け金は雇用者側が全額支払っています。なお、指導医の指示を聞かないクリニカルフェローは解雇されることを、最初の契約書で承諾させられます。 

──「オンコール待機」は、どのような業務内容なのですか。 

岡野 週末のオンコール待機は、救急や病棟からの電話ではなく、主に退院した患者さんからの電話への対応です。クリニカルフェローは私を含めて5人いたので5週間に1回、担当が回ってきました。「痛みが強いのだがどうすればいいか」「薬が無くなったのでリフィル処方をしてほしい」といった問い合わせが主でした。 

オンコールは原則自宅待機で処方などはリモートでもいいのですが、私は現地の細かい医療システムの活用やトラブルシューティング、例えばオンラインで麻薬の処方箋をどうやって薬局に送るか、薬局にその薬がなければどうするか、などに自信が持てなかったので、直ちに病棟担当のPAに相談できるように、ほぼ常に病院にいました。PAの皆様にはだいぶ助けてもらいました。 

また、HSSには救急外来がないので、HSSで手術を受けた患者さんが退院後に具合が悪くなって救急搬送された場合、搬送先は別の病院のERになります。米国では外科医の権限が強いので、その場合、ERの救急医からHSSに電話連絡が来て、処置や入院について指示を求められるのです。その対応もオンコール当番の仕事でした。原則的にはクリニカルフェローが主治医に確認を取って、救急医に指示を返すのですが、深夜や週末は主治医が電話に出てくれないので、なかなか連絡がつかず大変でした。

HSSで一緒に働いていた同僚たちと摩天楼を対岸に望むレストランで記念撮影。左から2番目が指導医の1人のヒューズ氏。一番右はその時HSSに研究留学中であった星野雄志氏(現・朝日大学附属病院整形外科教授)。(岡野氏提供)

日本では実施機会が少ない頚椎前方固定術を多数経験

──米国でクリニカルフェローを経験して良かったのはどんなところですか。 

岡野 脊椎外科手術の手技そのものは日本と大きく変わらず、日本で全く経験していないものはほぼありませんでした。しかし、例えば頸椎の固定術については、日本では後方固定が多い一方、米国では前方固定を選択することが多いなどの違いもありました。 

私はHSSで頚椎前方固定術をたくさん経験したので、実施に当たって抵抗感がなくなりました。留学前も、外傷や変性疾患に対して前方固定をすることはありましたが、除圧のとき、狭い椎間からの椎間板・骨切除に100%の確信がもてませんでした。そのため目視できるように骨を少し多めに削って腸骨を移植していたのですが、狭い術野でも手術顕微鏡を用いて安全に除圧する感覚をつかみました。 

それとは反対に、「従来型」の術野を横に大きく展開する手術もたくさん経験しました。日本で短い固定術の場合は、最小侵襲手技といって、筋肉を極力はがさずに経皮的なスクリュー挿入などを行うことが多く、大きく展開するケースは今では少ないのですが、それが必要な場合もあります。必要なときに躊躇なくスムーズにできるようになったのは良かったと思います。 

米国の医療を肌で感じられたことも勉強になりました。米国では医療費が高いので患者さんがすごく痛がっていても早く退院させます。患者さんも、それを望みます。痛みには、かなり強めの麻薬性鎮痛薬で対応するのがごく普通でした。また、患者さんそれぞれの保険でカバーされる病院や医療が決まっていて、患者さんがそれを前提に自分で治療を選択していました。知識としては知っていても、日本ではなかなかイメージしにくかったことが肌感覚で分かりました。 

あとは付随的な気づきですが、臨床医の社会的な地位の高さを感じました。ニューヨークでリサーチフェローの立場で部屋を探したときには、高額のデポジットを支払わないと部屋を貸してもらえなかったのですが、クリニカルフェローになってから探したときは信用の高さからか、すんなりと良い部屋が見つかりました。近所の人や院内で会う患者の家族からも、尊敬を込めて「ドクター」と呼ばれていました。日本では医師免許を持っている人はみな医師ですが、米国では医学部を出ていることと、臨床医であることは別であることを実感しました。

同僚のリサーチフェローのザルツマン先生とドネーションパーティーの会場で記念撮影。病院への寄付を募るパーティーというのはまさに米国的です。(岡野氏提供)

 休日や休暇にはプロスポーツ観戦を堪能

 ──米国留学中、休日や休暇の楽しみはありましたか。 

岡野 米国の娯楽と言えばスポーツです。MLB(Major League Baseball)、NBA(National Basketball Association)、NFL(National Football League)、NHL(National Hockey League)といった米国の4大プロスポーツはひと通り観戦に行きました。それから、テニスの全米オープンも観に行きました。どのスポーツイベントも会場は満員で、集客力がすごいなと感心しました。チケットは早目に予約すればだいたい取れました。MLBのチケットはすごく高いイメージですが、一番安い席は10ドル代で購入できました。米国では4大プロスポーツの試合一通りに加えて、全米オープンテニスも観戦した。左はNBAのニューヨーク・ニックスの試合、右は全米オープンテニスで大阪なおみ選手の試合を観戦したときの写真。(岡野氏提供)


──岡野先生は大学時代、アメリカンフットボール部に所属していたそうですね。 

岡野 はい。全学の体育会に所属し、関東学生リーグの一部リーグでプレーしていました。ですから米国でNFLの試合を観るのを特に楽しみにしていました。バッファローではバッファロー・ビルズ対タンパベイ・バッカニアーズの試合、ニューヨーク市ではニューヨーク・ジェッツ対バッファロー・ビルズの試合を観に行きました。競技の詳細な部分はあまりに専門的なので割愛しますが、実際に生で見ると、「選手が皆、思っていた以上にでかいな」という印象でした。選手が大きくスピードも速いので、フィールドが狭く見えました。スタジアムの外でバーベキューをする人もいたりして、そういうのを含めて米国ではスポーツ観戦が文化として定着しているんだなと感じました。 

──帰国後は昭和大学医学部整形外科学講座に入局されましたね。何か心境の変化があったのですか。 

岡野 豊根先生はじめ医局の先生方に留学でお世話になったので、ご恩返しがしたかったのが理由の1つです。加えて、これまでに身に着けてきた臨床・研究のスキルを十分に生かすには、脊椎の診療をもう少し専門的にやれる施設に所属するのがいいかなと考えました。今後は後進の指導にも取り組んでいきたいと考えています。 

──最後に、臨床留学を目指す医師に向けてアドバイスをお願いします。 

岡野 私が臨床留学を実現できたのは、様々な要素が絡み合ってのことです。運が良かったという側面も大きいと思います。別の人が同じようなルートで実現を目指しても、同じように達成できるかどうかは分かりません。ただ、資格と英語力、論文実績は必須です。USMLEはできるだけ早く全部パスすること、英語の勉強をしっかりしておくこと、論文はできれば臨床研究の原著論文を1本でも多く書いておくことが大切だと思います。 

日本で専門医資格を取得後に、米国でクリニカルフェローを目指すのであれば、その目的を明確にしておく必要があります。経験できる手術件数は多いので、サブスペシャルティ領域の研修を集中してやりたいのであればメリットはあると思います。ただし個々の手術の手技は、日米で大きな違いはありません。特に脊椎外科に関しては、日本の第一線の外科医の技術は、米国と比べても遜色ないか、むしろ優れていると感じました。卒後10年以上の中堅医師であれば、あえてハードルの高い正規の臨床留学をせずとも、手術見学だけでも手技は十分に学べると思います。 

臨床留学を実現した後の出口戦略もしっかり考えておいてください。米国にとどまりたいのか、とどまって何をするのか、それとも日本に帰って仕事をするのか──。留学は手段であって目的ではありません。留学後の目標達成に向けた準備も同時に進めておきましょう。

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