米国留学での異国暮らしで家族がギュッとひとつになった

奈良県立医科大学総合医療学准教授の矢田憲孝氏は、米国カンザス大学メディカルセンターに2年7カ月留学していた。渡米したのは、新型コロナウイルス感染症の流行真っただ中の2021年2月のことだった。延期することも考えたが、「今行かなければ、もう留学のチャンスは来ないかもしれない」と決行した。留学中は家族で一緒に行動することが多く、子どもを通じて現地の人たちとの交流も広がった。「家族がギュッとひとつになった」ことが、留学して一番良かった点だと矢田氏は振り返る。

奈良県立医科大学 総合医療学 准教授
矢田 憲孝氏

矢田 憲孝(やだ・のりたか)氏
2005年鳥取大学医学部医学科卒業、鳥取県立中央病院臨床研修医。2007年淀川キリスト教病院救急・集中治療科医員。2009年奈良県立医科大学救急科医員。2010年淀川キリスト教病院救急・集中治療・総合内科医員。2015年同医長。2015年奈良県立医科大学総合医療学助教。2020年奈良県立医科大学博士号取得。2021年University of Kansas Medical Center, Department of Pathology and Laboratory Medicine, Postdoctoral Fellow。2023年奈良県立医科大学総合医療学講師。2025年同准教授。

──留学先と期間から教えてください。 

矢田 2021年2月に渡米して、2023年9月に帰国しました。2年7カ月、米国に基礎研究留学していたことになります。渡米当時の私の年齢は40歳でした。留学先は、カンザス大学メディカルセンターのロン・ジェン先生(Long Zheng, M.D., Ph.D., Professor and Department Chair, Pathology and Laboratory Medicine, University of Kansas Medical Center)のラボです。 

──どういった経緯で留学することにしたのですか。 

矢田 私は鳥取大学医学部を卒業後、出身の関西に戻りたかったことと、救急医療に長けた施設で学びたかったことから、淀川キリスト教病院(大阪市、藤原寛院長)に勤務しました。当時はまだどこの医局にも所属していなかったのですが、淀川キリスト教病院は奈良県立医科大学医学部救急医学教室の関連施設だったため、奈良県立医大の先生方と知り合いになることができたのです。ただ、その頃の私は臨床一筋で、基礎研究には全く興味がありませんでした。 

淀川キリスト教病院で敗血症に伴うDIC(播種性血管内凝固)の治療に多く携わるうちに、血栓止血領域に次第に興味を抱くようになりました。そしてTTP(血栓性血小板減少性紫斑病)やHUS(溶血性尿毒症症候群)といった血栓止血関連の重症の患者さんを経験した際に、当時救急医学教室の准教授だった西尾健治先生(現総合医療学教室名誉教授・宇陀市立病院地域医療センター長)と、輸血部の准教授であった松本雅則先生(現血液内科・輸血部教授)に相談し、アドバイスを頂く機会がありました。西尾先生が、この領域の基礎研究を手掛けているからこそ言える的確なアドバイスをくださったことに感銘を受け、臨床だけやっていては限界があるなと痛感したのです。 

さらに、西尾先生と松本先生にそれぞれご指導を頂いて血栓止血関連の論文を発表する機会を得て、西尾先生と執筆した論文では日本救急医学会の最優秀論文賞を受賞できたことも1つのきっかけとなりました。臨床をバリバリやりながら、基礎研究にも一線の研究者として取り組む西尾先生の姿を目標にキャリアを積んでいきたいと思い、入局を決めたのです。以来、臨床と共に基礎研究にも、積極的に取り組むようになりました。 

留学に興味を持ったのも、西尾先生の影響です。洗脳されたわけではありませんが(笑)、折に触れて「留学はめっちゃ良かったよ」「行った方がいいよ」「家族と一緒に行ったら絶対に良い経験になるよ」と繰り返し言われ続けているうちに、段々と自分も留学に行くものだという気になっていきました。 

医局教授からの紹介で留学先が決定 

──ジェン先生のラボに留学することになったのはどうしてですか。 

矢田 2020年に博士号が取れる目途がついて、いよいよ留学するかとなったとき、西尾先生が留学先候補としてジェン先生のラボはどうかと提案してくれました。ジェン先生は、TTPの臨床・研究で、世界のトップランナーの1人です。国際血栓止血学会(International Society on Thrombosis and Haemostasis:ISTH)で、TTPガイドラインのチェアを長年務めていた方です。 

実は他に、もう1つ別のラボも留学先候補として示していただき、選択肢は2つありました。そちらも大変有名な先生のラボだったのですが、ラボの研究領域と私が大学院で手掛けていた研究テーマがより近かったという理由で、ジェン先生のラボを選びました。 

ジェン先生は、西尾先生が米国ミズーリー州ワシントン大学のJ・エヴァン・サドラー先生(Dr. Jasper Evan Sadlerのラボに留学していたときの同僚だった方です。西尾先生はずっと、自分の教室からジェン先生のラボに誰か弟子を留学で送りたかったものの、なかなか該当者がいなかったそうです。私がその第1号になりました。 

──矢田先生ご自身も、留学前からジェン先生と面識があったのですか。 

矢田 ジェン先生と西尾先生は、長年すごく仲良くされていて、国際学会では必ずお会いになります。その際に私も、ジェン先生にお会いしたことが3度くらいありました。 

──有給での雇用はスムーズに決まったのですか。 

矢田 ええ、スムーズでした。要因の1つは私が西尾先生の弟子だからですが、タイミングも良かったのです。ジェン先生はアラバマ大学からカンザス大学に移籍されたばかりで、ラボの研究者を増やしている最中でした。しかも大きなグラントが獲得できて資金も潤沢でした。さらに2020年は、新型コロナウイルス感染症の影響で、研究者が集めにくくなっていた時期でした。そのため、「給料は出せるから、早くおいで」と言ってもらえました。 

とはいえ、私が全く力を発揮できなかったら、当医局から次の人が有給でジェン先生のラボに留学できないのではないかというプレッシャーと不安がありました。 

iTTPと血栓、新型コロナと血栓について2つの研究を実施 

──ラボの研究内容としては、当時の矢田先生の研究テーマと合致していたのですね。 

矢田 そこはドンピシャでした。 

──留学先での研究内容について教えてください。 

矢田 私は、日本では主にTTP、敗血症性DIC、膠原病など、血栓と炎症が関連する疾患の病態や発症のメカニズムの研究をしてきました。TTPは全身の血管に小さな血栓ができる希少疾患です。血小板同士をくっ付ける「フォン・ヴィレブランド因子(VWF)」を切断する酵素「ADAMTS13」の遺伝子変異に基づく先天性TTPと、後天的にADAMTS13に対する自己抗体を産生して発症する免疫原性TTP(iTTP)があります。 

留学先での1つ目の研究は、iTTPの病因における「好中球NETosis」の役割の解明が目的でした。NETosisというのは好中球に特徴的な細胞死のことです。好中球は侵入してきた外敵と戦うために、自ら細胞破裂して網状の構造物(NETs)を放出し、外敵を捕捉します。このNETosisが炎症や血栓症に関与することは分かっていましたが、iTTPでの役割は明らかになっていませんでした。 

血小板血栓は、ある程度血流がある中で、血小板が徐々に積もって形成されるといわれています。ですから、そういった血管内の状態を模した「microfluidic shear based assay(微小流体剪断法による分析)」という実験系に、TTPモデルマウスやiTTP患者さんの血液サンプルを流して観察するといった実験を行いました。研究の結果、好中球NETosisが、血小板数やVWFに依存していることが分かりました。また、組み換えADAMTS13が、血栓形成とNETs蓄積の両方を抑制することなども分かりました。 

──2つ目の研究テーマは、どういったものだったのですか。 

矢田 新型コロナ患者さんの血液サンプルを使って、好中球NETosis、血小板血栓、VWF、ADAMTS13の関係を調べることでした。ADAMTS13は、TTP以外でも感染症など様々な病気によって活性の低下が起こることがあり、血栓形成の原因になることが知られています。新型コロナウイルス感染症でも血栓症が起こることがあって、私も留学前には日本で新型コロナ患者さんの診療にも従事していました。VWFやADAMTS13、さらに好中球NETosisが、新型コロナウイルス感染症の炎症と血栓形成に関連しているのではないかと推測されていましたが、まだそれらの相互作用についての詳細は確かめられていませんでした。 

研究の結果、重症コロナ患者さんの血液サンプルでは、NETosisの割合が劇的に増加しており、さらに血小板血栓が形成されやすいことが確認できました。また、新型コロナウイルス感染症においても、組み換えADAMTS13が血栓形成とNETs蓄積の両方を減少させることなども分かりました。重症コロナ患者さんの血液中での、好中球、血小板と血栓形成、ADAMTS13の関係を明らかにすることができたといえます。これら2つの研究成果については、既に論文発表しています。

                                                          ラボのスタッフとBBQパーティーで記念撮影。前列右がボスのジェン先生。(矢田氏提供)

コロナ禍で研究が停滞、逆転の発想でコロナをテーマに新規研究へ 

──2つの研究を手掛け、既に両方、論文発表されたのですね。研究がうまくいった要因は何かありますか。 

矢田 実は、1本目のiTTPの研究では、血液サンプルがなかなか集まらず苦労しました。いろいろ理由はありますが、一番大きかったのは新型コロナの影響です。マウスを使った実験はほぼ終わったのに、患者さんの血液を使った研究のパートが全然、進みませんでした。 

それでジェン先生と対応策を話し合い、逆転の発想で、コロナ患者さんの血液サンプルを使った2本目の研究を立ち上げようということになったのです。ジェン先生が、限られた期間内にどうにか私に成果を上げさせようと配慮してくださった面もあったと思います。 

ジェン先生は研究者であり臨床医でもあるので、すぐに病院に話を通してくれて、新型コロナの血液サンプルと患者さんのデータが使えるようになりました。もしジェン先生が臨床医ではない研究者だったら、そうスムーズにはいかなかったと思います。結果的には、後から着手したコロナ患者さんの血液サンプルを使った研究が先に仕上がって、コロナが落ち着くとともに集まるようになったiTTP患者さんのサンプルを使った研究も追って完成することになりました。 

──矢田先生が臨床医であったことも、うまくいった要因の1つだったのですか。 

矢田 米国で臨床医をしていたわけではありませんが、ジェン先生と同じ視点で話ができ、すぐに共通認識が持てた点はメリットだったと思います。 

──留学先での成果を、日本でどう生かしていきますか。 

矢田 研究に関して言うと、血栓と好中球、血小板の関連をテーマとした研究は、対象の疾患をiTTPから新型コロナに広げたように、他にも様々な疾患に広げられる可能性があります。ですから、ジェン先生と相談しながら、日本で手掛けられるものは手掛けていきたいと考えています。臨床については、自分が直接診療をしたわけではないですが、アメリカのiTTP治療の最先端に触れる機会があり、日本でまだ治験中だった薬の実際の効果を見ることができ、日本の診療との違いを感じることができたのは大きかったです。帰国後はその経験を診療に活かせていますし、さらに日本の臨床医や研究者に情報を共有・発信することにもつながっています。 

ラボの同僚は多国籍、BBQや食事会で交流 

──実験手技、同僚との関係などは最初からうまくいきましたか。 

矢田 ラボのメンバーはみんな、すごく親切だったのです。フローサイトメトリーなどは、私は日本でやったことがなく、最初は全然やり方が分かりませんでした。でも、みんながすごく親切に教えてくれました。本当にありがたかったです。そういったサポートがなかったら、自分だけで研究を仕上げるのは無理だったでしょうね。 

──他の研究者は、どこの国の出身だったのですか。 

矢田 いろいろです。米国以外にも、中国、チリ、インド、台湾などから来ていました。 

──ラボの同僚の方たちとは、仕事の時間以外も付き合いがあったのですか。 

矢田 カンザスシティはBBQ(バーベキュー)の街といわれています。ラボのみんなもBBQが大好きでした。ラボには10〜15人の研究者がいて、それぞれが家族を連れて集まって、年に数回、野外でBBQをするのが恒例でした。家族以外にも、ボーイフレンドやガールフレンドを連れてきていました。会場は主に、公園のBBQエリアや、ジェン先生のご自宅の庭などです。その他にも月に1回くらい、市中のレストランで食事会をしていました。私も、家族の予定がない日には参加していました。 

──その人数でBBQができるジェン先生のご自宅ってすごいですね。 

矢田 そうですね。ニューヨークやロサンゼルスのような大きな都市ではないからということもありますが、アメリカンドリームを感じる大きなご自宅でした。 

──食事会が多いというのは、米国のラボのイメージとはちょっと違っていますね。 

矢田 確かにそうかもしれないですね。米国人が主体のラボだと、また、違う雰囲気なのかもしれません。多国籍だから、そんな雰囲気だったのかもしれないですね。食事会では、ラボのメンバーの出身国の料理を順番に食べに行くというのをやっていました。「このレストランの料理のレベルは、本国と比べると……」などと出身の人に論評してもらうのです。それも楽しかったですね。

                                                         家族ぐるみで参加したラボのBBQパーティーで。(矢田氏提供)

子どもを通じて家族ぐるみの交流が拡大、帰国後も続く 

──ご家族みんなで渡米されたのですか。 

矢田 最初は単身で、妻と子どもたちは5カ月遅れて合流しました。私が渡米した2021年初めの段階では、新型コロナの影響で、学校はまだオンライン授業だったのです。子どもたちには日本で英語を習わせていましたが、とてもオンライン授業についていけるレベルではなかったので、この状況で渡米してもうまくやっていけないなと判断しました。オンライン授業が終了し、通常の授業に戻るタイミングで家族を呼び寄せました。カンザスシティのダウンタウンはあまり治安がよくないと言われています。しかし私たちの住居や学校は、のどかで落ち着いた郊外にあって、近くには地域の人たちが交流できる素敵な公園もありました。 

──お子様はすぐに学校になじめましたか。 

矢田 米国の中西部は、白人が多いエリアです。学校の生徒も白人がほとんどでした。その中にアジア人が入っていくと、いじめられるんじゃないかとか、相手にされないんじゃないかといった心配はありました。でも、全くの杞憂でした。学校の先生も、クラスメートの子どもたちも、その親御さんたちも、すごく親切にしてくれました。そのおかげか、子どもたちは学校に行き始めた初日から「楽しかった!」と言って帰ってきて、そのことにびっくりしつつ、うれしくて安心したのをよく覚えています。 

──学校に日本語が話せる先生はいたのですか。 

矢田 いえ、いませんでした。でも、だからこそ先生もクラスメートの親御さんも、うちの子どもに友人ができるように、いろいろ配慮してくれました。例えば、「あなたの子どもが仲良くなりたい子とプレイデート(アメリカで子どもたちが放課後や土日に学校外で一緒に遊ぶ約束をすることをそう呼んでいました)ができるようセッティングするから」と。それでしょっちゅう、お友だちの家に遊びに行ったり、私たちの家にお友だちが遊びに来たりしていました。 

アメリカでは治安の問題もあり、小さい子どもたちだけで屋外で遊ぶことはあまりないのです。自分の家にお友だちを呼ぶか、お友だちの家に行って遊ぶか、親が一緒に公園に行くというのが普通でした。相手の家にお呼ばれしたときは、最初の頃は、私も付き添いで一緒に行きました。子どもたちが遊んでいる間、親御さんと雑談するのは良い英語のトレーニングになりました(笑)。子どもを通じて、現地での交流がすごく広がって、家族ぐるみで仲良くなりました。今もそのときの交流が続いています。 

子どもたちは今も時々、ビデオチャット(テレビ電話)で仲の良かったお友だちと通話をしています。帰国後にも子どもたちの誕生日に、カンザスの学校のクラスメートみんなからサプライズの手紙とビデオメッセージが送られてきた時には、びっくりして大喜びでした。また、カンザス現地校(毎日通っていたカンザスの現地の学校)のお友だち、日本語補習校(土曜日だけ通っていた日本語の学習のための補習学校)のお友だち、さらに妻が仲良くなったカンザスの友人、私のラボの友人などの家族が、帰国後から今年の夏にかけて7組も奈良に遊びに来てくれたのです。 

──7家族ですか、すごいですね。 

矢田 自作の英語のガイドブックも準備しました。奈良や京都のツアーガイドが英語で完璧にできるくらい、案内に慣れてきました(笑)。この秋にもまた、次男がカンザスで一番仲良くなった親友が、家族と一緒に、サンクスギビングの休みを使って初めて日本に遊びに来てくれました。米国から帰国する際のお別れ会で、そのお友だちが「絶対に日本に会いに行くから」って泣きながら言ってくれたんです。それを聞いた親御さんが、「そこまで言うなら予定を組もうか」みたいな感じになって、日本への旅行が実現しました。そのお友だちが、うちの子どもが通っている日本の小学校に一緒に行ってみたいと言うので、1日体験ができるよう私から小学校の先生に話をしたりもしました。 

──留学先で、現地の人たちと仲良くなるコツは何かありますか。 

矢田 単純に、関わった人がいい人ばかりだったとしか言いようがないです。ラボのメンバーも、子どものお友だちとその親御さんたちも、学校の先生も、みんないい人でした。米国での生活や仕事がスタートした時期は、ただただ助けてもらってばかりでした。助けてもらったら、その人が好きになるし、何か恩返しをしたいと思いますよね。仕事でもプライベートでも最初は助けてもらってばかりだったのですが、次第にお返しできることが増えて、少しでも恩返しができるようになったことで、こちらもすごくうれしくなりました。そうやって自然に、どんどん交流が増えて、深まっていきました。

                                                          子どもたちの親友が家族みんなで日本に来てくれて奈良で再会。(矢田氏提供)

異国暮らしで家族がギュッとひとつになった 

──カンザスシティの印象はいかがでしたか。何か楽しみはありましたか。 

矢田 私はジャズが大好きで、大学時代にはサークルでジャズピアノの演奏をしていました。カンザスシティは有名なサックスプレーヤーであるチャーリー・パーカーが育った街でもあり、ジャズがすごく盛んです。ジャズバーがたくさんあるので、何度か聞きに行きました。一番のお気に入りは「Green Lady Lounge」というお店でした。基本的には地元のプレーヤーが演奏していましたが、ニューヨークやシカゴなどにも負けないくらい、みんな本当に上手かったですよ。 

──ジャズバーでは、飛び入りで演奏したり、ということはなかったのでしょうか。 

矢田 コロナ禍前は、1年に1回くらい人前で演奏する機会を作り、それに向けて練習していました。しかしコロナで、そういう機会もなくなっていました。米国では、もちろん自宅にピアノはなく練習ができませんでしたから、いきなりのセッションはとても無理です。できたらよかったですけど……。それが心残りと言えば心残りかな(笑)。 

──最後に、留学を目指す医師にアドバイスをお願いします。 

矢田 個人的には留学はすごく良い経験だったので、もし留学したい気持ちがあって、チャンスがあるならば、ぜひ行ったらいいのではないかなと思います。私が留学して一番良かったと思うのは、家族と一緒に異国で暮らす経験ができたことです。キャリアアップとか研究面での成果ももちろんありますが、振り返ると一番は、そこだったなと思います。 

留学のきっかけをくださった西尾先生が、「家族と一緒に留学に行ったら苦労はするけど、家族がギュッとなるよ」と言われていたのですが、全くその通りでした。留学すると家族が一緒にくっついて行動することが多くなります。元々うちの家族は日本でも一緒にいることは多かったのですが、アメリカでは関係がより濃密になって、家族がまとまってギュッとひとつになる感じがしました。それがすごく良かったです。 

留学期間は、比較的時間に余裕があり、子どもたちのことを良く知ることもできました。特に、渡米した当時7歳だった長男とは、学校で何をして遊んでいるのかとか、勉強は何が得意で何に苦労しているかなどいっぱい話をして、関わることができました。帰国後はまたちょっと、あまり関われない時期になっていますが、留学期間にたっぷり関われた蓄積が今も効いているように思います。家族をお持ちの方は、ぜひ家族で一緒に留学に行かれてはどうでしょうか。 

私の場合、すごく苦労して留学を実現したわけではないので、留学の準備に関してはアドバイスしにくいです。あえて言うなら、留学資金を潤沢にしておくことが大事かなと思います。留学先のラボから給料が出るとしても、ポスドクのポジションでは上限が決まっています。給料だけでは生活費が足りず、手持ちの資金を取り崩して生活することになると思います。 

ですから頑張って助成金をたくさん獲得して行くか、しっかりお金を貯めて行くことが、現実的には大事だと思います。なお、ニューヨークやボストンのような大都市に比べると、カンザスシティのような小さい都市の方が、明らかに生活コストは低く抑えられます。特に家賃が全然違うので、毎月の固定費が圧倒的に小さいです。留学先のエリアや都市が選べるならば、そういった点も考慮するとよいでしょう。 

留学を実現するに当たっては、尻込みせずに思い切って踏み出すことも大事だと思います。私が渡米したのは、新型コロナウイルス感染症の混乱が続く2021年2月でした。いったん延期して、コロナが落ち着くまで待とうかとも考えましたが、「今行かなければ、もう留学のチャンスは来ないかもしれない」と思い、妻と相談して決行しました。 

みなさんもどこかの段階で、留学に行くかやめるかで迷うことがあるかもしれません。最終的にはご自身の判断ですが、留学実現を目指すに当たっての準備はもちろんとても大事ですが、最後の最後は「現地に行ってから何とかしよう」くらいの割り切りと思い切りが必要な場合があるかもしれませんね。

                                                        ハロウィンの時期にカンザス農場で。(矢田氏提供)

閲覧履歴
お問い合わせ(本社)

くすり相談窓口

受付時間:9:00〜17:45
(土日祝、休業日を除く)

当社は、日本製薬工業協会が提唱する
くすり相談窓口の役割・使命 に則り、
くすりの適正使用情報をご提供しています。