慶應義塾大学医学部救急医学助教の山元良氏は2015年から2年間、米テキサス大学サンアントニオ校のトラウマセンターにフェローとして臨床留学していた。日本とは比較にならないほど外傷の重症度が高く患者数も多い米国で、重傷外傷の手術戦略を学びたかったことが、留学を目指した理由だった。留学先では、救命が難しいとされる「外腸骨静脈損傷」の手術を手掛け、30分を切る手術時間で救命するなどの成果を上げた。臨床留学を目指す医師に対し、「使命感と覚悟を持って諦めずに頑張り続ければ必ず実現する」と背中を押す。
慶應義塾大学医学部 救急医学 専任講師 山元 良氏
山元 良(やまもと・りょう)氏
2006年慶應義塾大学医学部卒業。2006年東京都済生会中央病院初期研修医。2008年慶應義塾大学医学部救急医学後期研修医。2012年済生会横浜市東部病院救急科医員。2013年栃木県済生会宇都宮病院救急科医員。 2015〜 2017年University of Texas Health Science Center at San Antonio, Department of Surgery/Division of Trauma and Emergency Surgery, Trauma Surgery Fellow 。2017年より現職。
――留学先、期間などから教えてください。
山元 医師9年目の2015年1月から2017年1月までの丸2年間、米国テキサス大学サンアントニオ校のトラウマセンター(University of Texas Health Science Center at San Antonio, Department of Surgery/Division of Trauma and Emergency Surgery)で、メディカルフェローとして勤務しました。UTサンアントニオのトラウマ部門のトップはロナルド・M・スチュワート先生(Dr. Ronald M. Stewart)なのですが、外科全体を統括する立場に昇格されていたため、トラウマ部門はジョン・G・マイヤーズ先生(Dr. John G Myers)が統括し、フェローシップのプログラム長はラモン・F・セステロ先生(Dr. Ramon F. Cestero)が務めていました。
――どうして米国に臨床留学をしようと考えたのですか。
山元 その理由はすごくシンプルで、私が学びたい外傷医学が学べる環境が日本にはなく、米国にあったからです。日本は、世界一安全な国です。そのため「重症外傷の患者がほとんどいない」のです。いやいや交通事故などでひどい外傷を負った人が運ばれてくるじゃないかと、みなさんは思われるかもしれません。しかし米国と日本を比べると、外傷のレベルや頻度がぜんぜん違います。米国では銃やナイフによる傷害事件が多く、その結果、外傷の重症度が高く、患者数が多く、それに対応するための医療システムや手術戦略が発展しているのです。
――トラウマセンターを目指すきっかけが何かあったのですか。
山元 私が研修医の頃に、米国に留学した経験を持つ先輩医師と話す機会がありました。将来、どんな医者になりたいかと聞かれたので、私は、外傷を含めた緊急手術が上手い医者になりたい、それも単独の臓器だけでなくて、様々な臓器のあらゆる外傷に対応できる医師を目指そうと考えていると話したのです。
するとその先輩医師が、「米国には日本にはない『トラウマセンター』というのがあって、外傷外科専門の医師があらゆる外傷手術に対応している。そこに留学すれば君がやりたいことが学べるんじゃないか」と話してくれたのです。それがきっかけで米国のトラウマセンターに留学したいと思うようになり、その目標に向かって歩き始めました。
――どのような道筋で臨床留学を実現したのですか。
山元 研修医を終えるまでに米国の医師国家試験「USMLE」のステップ1をパスし、ステップ2も医師3年目までにパスしました。米国で外傷外科の臨床をやりたいと思ったら、その後のルートは一般的には2通りあります。1つは、米国でレジデンシーをもう1回やるルートです。マッチングに参加してレジデントのポジションを取って5年間の研修を終えた後、再びマッチングに参加してどこかの施設のトラウマセンターにフェローとして採用されれば、外傷外科を学ぶことができます。
私は、このルートは初めから考えていませんでした。日本に帰ってくることを前提にしていたし、手術の手技自体は日本人の方が上手いと思っていたので、米国でレジデンシーをやり直すのは無駄だと思ったのです。ですからもう1つのルートを選びました。日本で外科や救急・集中治療のトレーニングを積んで専門医資格を取り、その上でフェローシッププログラムに応募し、トラウマセンターでフェローのポジションを取って、米国でレジデンシーを終えた人たちと一緒に外傷外科を学ぶというルートです。こちらのルートの場合、米国に留学できるのは最短でも専門医が取れる医師7年目以降になるので、そこに向けて臨床に打ち込みました。
UTサンアントニオ・トラウマセンターの仲間たちとの記念撮影。前列左端がロナルド・M・スチュワート氏、中央が山元氏、山元氏の右隣がジョン・G・マイヤーズ氏、左後がラモン・F・セステロ氏。(山元氏提供)
180施設に応募するもいったん全滅、敗者復活戦でフェローのポジション獲得
――フェローのポジション獲得は、想定通り、スムーズにいったのですか。
山元 いえ、苦戦しました。米国の医師免許はぞれぞれの州が発行しており、その基準は州ごとに違います。USMLEを全部パスしていることが前提条件なのは同じですが、他にも「米国でメディカルトレーニングを受けていること」「米国の病院で1年以上働いた経験があること」といった条件を設けている州がほとんどなのです。そういった条件がない州はテキサス州の他、フロリダ州とあともう1つくらいしかありませんでした。ポジション獲得を目指して米国中の180施設ほどに応募したのですが、書類選考をパスして現地での面接に進めたのは、実際にその3州の3カ所のトラウマセンターだけでした。
実は、UTサンアントニオのトラウマセンターを含む3カ所とも、いったん不採用となりました。しかし敗者復活戦のようなルートが残されていたので、それにトライしたところ、UTサンアントニオからだけ「検討する」と返事がきたのです。そのときの担当がマイヤーズ先生でした。
――臨床留学できなかった可能性もあったわけですね。
山元 ありましたね。ただ、本当に命がけで行く覚悟だったので、次の一手も考えていました。米国での臨床経験がないことが問題なので、その実績をつくるために何らかの形で米国のどこかの病院で、無給でもいいから働くと。手術はできなくても、何とかして働いた実績を作ることができないかと、いろいろなオプションを考えていました。
日本で臨床を目いっぱいやりながらだったので、自分の人生において一番きつい就職活動の時期でした。妻の存在が精神的な支えでした。私が夢を追っているのを、妻が常にサポートしてくれました。それは非常に大きかったです。
重傷外傷の手術戦略を学んだのは手術室の中
――実際に米国のトラウマセンターに留学してみて、日本と米国の外傷外科の違いを、どう感じましたか。
山元 端的に言うと、日本だったらもう駄目だろうと思ってしまいそうな外傷でも、医師個人としても組織としても、絶対に諦めないのです。米国では数%でも救える可能性がある場合に、救命のための適切な処置をしなかったら、それは「プリベンタブル・トラウマ・デス(preventable trauma death:PTD)」だと考えます。だから米国のトラウマセンターでは、生存可能性が10%だろうが20%だろうが、できることは全部やります。
例えば、心臓にナイフが刺さって心臓が止まっている。開胸して心臓マッサージをしていて、既に何百単位も輸血をしている。そういった場合、日本だとどこまで続けるかを探るような雰囲気になりがちですが、米国ではとにかくやれることは全部やります。格好がいいからでも何でもなく、当たり前にやっていました。
――トラウマセンターでの勤務内容について教えてください。
山元 2年間の契約期間中に、私が手掛けた手術件数は約300件です。重傷外傷の手術も多数手掛けました。同センターでは、フェローは標準的な外科手術なら問題なくこなすことができる、既に独り立ちした外科医とみなされます。ですからほとんどの手術は、私自身が主体となり執刀させてもらいました。
――重症外傷手術の戦略やノウハウはどのように学んだのですか。
山元 アテンディングドクターの手技を見たり、解説、助言を聞いたりして学びました。ミーティングやカンファレンスではなく、手術室で学んだことがほとんどです。「これはちょっと難しいぞ」という全体の1割くらいの手術も、アテンディングドクターは基本的に私に手術の指揮を任せてくれて、サポートに付いてくれるのです。そういった機会がすごく貴重でした。実地で手術の進め方の戦略を聞いたり、ステップごとに解説や助言を聞いて学ぶことができたからです。学んだことを今度は自分自身でやってみて、身に着けていく繰り返しでした。縫ったり切ったりといった外科医としての基本的な技術レベルは日本の方が高いと思いますが、それらの技術を組み合わせて手術を進めるという戦略面で、米国の外傷外科ははるかに進んでいます。その部分をしっかり学ぶことができました。
例えば、銃で撃たれた人の外傷手術です。銃弾は、ものすごいエネルギー波を出しながら身体を突き抜けていくので、弾が当たっていない周囲の臓器にもダメージが及ぶのです。銃創路以外にも複数の出血がある可能性が高いわけです。銃で撃たれた患者さんが運ばれてきたら、まず第一の目標は止血です。しかし複数の出血箇所がある場合、1カ所ずつ出血をゼロにしていくという方針では患者さんは救えません。手術前に画像を撮影してアセスメントする余裕もありません。開胸・開腹した上で、出血箇所を評価して、どういった順番で、どの程度止血していくかという戦略を短時間で立てなければならないのです。そういった知見は私にとってとても大きな学びになりました。
――英語については最初から問題なかったのですか。
山元 ありましたね。日本人は英語に苦手意識がある人が多いと思います。私もそんなに英語は上手じゃなくて、一生懸命しゃべっても相手から「何言ってるのか分からない」と言われ、最初はすごくコンプレックスに感じていました。しかし留学がスタートしてから2カ月くらいしたとき、ふと、吹っ切れました。「もういいや、流暢な英語がしゃべれなくても。通じる単語を並べてコミュニケーションがとれればいい。英語を勉強しに米国に来ているわけじゃないのだから」と思ったのです。そういうマインドになってからは、上手く歯車が回り始めた感じです。
外腸骨静脈損傷の手術をスチュワート氏と担当、23分で完了して患者を救命
――トラウマセンターで手掛けた手術の中で、特に記憶に残っているものはありますか。
山元 救命が最も厳しい外傷の1つに「外腸骨静脈損傷」があります。私がトラウマセンターで勤務していた2年の間に外腸骨静脈損傷の手術は4件あり、私はそのうちの3件を担当しました。私が担当した3件の手術は、これは本当にたまたまなんですが、当直がスチュワート先生と同じ日で、すべて2人のコンビで手術を行いました。全4件のうち、患者さんを助けることができたのは、私にとっての3件目だけでした。
私にとって1件目の外腸骨静脈損傷の患者さんが搬送されてきたのは、留学1年目の後半でした。その時も、でき得る限り迅速に止血して、血管の吻合をして、周辺の臓器の損傷も全部リペアして、自分なりにベストを尽くして集中治療室に入れました。腹腔内に血液があふれている中で、非常に難しい手術でしたが、手術時間は1時間ほどでした。常識的に考えるとかなり短い時間です。それでもその患者さんは、3日ほどで亡くなりました。
米国内のトラウマセンターは、米国外科学会が認定しています。認定要件の1つに、全ての死亡症例と合併症が起こった症例について、「M&M(Morbidity &Mortality)カンファレンス」を開いて検証し、原因を究明すること、という項目があります。UTサンアントニオのトラウマセンターでももちろん、M&Mカンファレンスを毎週やっていて、この症例も議題に上りました。症例検討に出席した大多数の外傷外科医の意見は「30分以内に手術を終わらせなければ、この患者は助からなかっただろう」というものでした。私は「30分で手術を完了するのはそもそも無理だ」と反論したのですが、「無理かもしれないが、患者を助けたいなら30分でやるしかない」と言われたのです。
それ以来、私は、どうしたら次に来る外腸骨静脈損傷の患者さんを助けることができるか、手術時間を30分に短縮するためにどうすればいいかを考え続けました。課題の中には、手術プラン決定までの時間など、各ステップの短縮や省略の可否、手術をサポートしてくれるレジデントやコメディカルとのコミュニケーションをより良くすることもありました。この件について直接話し合いはしませんでしたが、スチュワート先生も、同じように30分の壁を乗り越える方法を考えていたようです。そんな中で1例目から数カ月後に、私にとって2例目となる外腸骨静脈損傷の患者さんが搬送されてきて手術を担当しましたが、やはり救命できませんでした。
私にとっての3例目の患者さんが搬送されて来たのは、契約期間の終了まで1週間を切った留学2年目の12月31日、最後の当直の日の23時57分でした。私が開腹し、腹腔内を一目見たスチュワート先生が、「リョウ、これはあの外傷だな。絶対に救命するぞ」と言われました。私も「そうですね、やりましょう」と答えました。その瞬間から本当に呼吸をする時間を惜しむくらい、私たち2人とも、一切の無駄な動きなく手術を進めました。その時の手術時間は30分を7分下回る23分で、実際に患者さんを助けることができたのです。もう1回、同じ時間で手術をやれといわれたら、できるかもしれないし、できないかもしれません。それくらいの極限状態でした。
何も私だけが手術に一生懸命取り組んでいたわけでは全然ありません。トラウマセンターの医師はみな同じように、死力を尽くしても救えなかった症例を、恐れずに振り返り、徹底的に議論して、次の患者を救うためどうするかを考え抜いていました。それが米国の外傷外科の強さだと知るとともに、自分自身も1つの壁を乗り越えることができたという意味で達成感があったし、忘れられない症例です。ちょっときれい過ぎるストーリーかもしれませんが(笑)。
2017年1月1日、トラウマセンターで外腸骨静脈損傷の手術を成功させた後に、手術スタッフと記念撮影。山元氏の右隣がスチュワート氏。(山元氏提供)
留学経験を生かして大学病院に米国スタイルの外傷初期診療プログラムを導入
――米国で学んだことを、日本で生かせていますか。
山元 帰国して8年目ですが、留学経験はものすごく役立っていますよ。たとえば慶應義塾大学病院の救急科で、2017年に米国スタイルの外傷初期診療手順である「ATLS」を導入しました。また外傷手術のスキルは、予定手術でも、予期しない大量出血、再出血、縫合不全などに応用が利くようになりました。他の診療科が苦戦する症例の手術を、救急科が一緒にやることにより、救命できた事例も出てきています。救急の症例はもちろん、救急以外の診療科の症例でも確実に救命率が上がってきています。
――米国で学んできたことを、日本にうまく取り入れられたのはどうしてですか。
山元 1つにはスチュワート先生からのアドバイスのおかげだと思います。スチュワート先生は、テキサス州のメディカルシステムを構築した人なのです。帰国前に、「他の医師がやっていることを『それは間違っている』と否定してプライドを傷つけてはいけないよ。ただひたすら、正しいと思うことをやり続けなさい。リョウがいい成績を出していることが分かれば、『どうやっているんだ』と向こうから聞いてくるから」とアドバイスをもらいました。それを実践しています。
加えて慶應義塾大学医学部には、より良い医療の実践を応援してくれる文化があります。救急医学教授の佐々木淳一先生をはじめ、私に共感しサポートしてくれる人がとても多かったと思います。
諦めなければ実現する臨床留学、「絶対に行く」との覚悟を
――最後に臨床留学を目指す若い医師にメッセージをお願いします。
山元 やはり諦めないことです。何度も心が折れそうになると思いますが、何年かかっても諦めず頑張り続ければ、必ず行けると思います。諦めない気持ちを持ち続けるためには、ベタかもしれませんが、患者さんの救命から目を背けないことです。情熱だけでは足りません。自分のために米国に行くのではない、患者さんを救うために必要だから行くんだと。そのくらいの使命感と覚悟を持って、実現を目指してください。逆に言えば、それができないなら意味のある臨床留学を実現するのは難しいのではないかと思います。
それから、これは大事なポイントなのですが、臨床留学をして日本に戻って来ても、元の組織で収入などの待遇がよくなったり、楽ができたりといったことはほとんど期待できません。むしろ留学期間のブランクが不利になることも多いです。その辺りの事情は、研究留学とは大きく違います。それでも、自分の生活を犠牲にしてでも患者さんの命を救うための能力を何としても身に着けたい、そのための環境が日本にはなく、米国にあると信じるならば、ぜひ臨床留学を目指し、実現してほしいですね。そして米国の施設で耐え抜いて、生き残り、経験を持ち帰って、日本でより多くの患者さんを救命してほしいと思います。
医師は、患者さんの命と自分の生活を天秤にかけることを強いられる職業だと、私は考えています。今は、そういったことが正面きって言いにくい時代ですが、正直なところ、医師というのはそういう職業です。今振り返ってみて、私自身は臨床留学をして本当に良かったと思っています。