米ボストン大に留学、ラボ内外での交流が帰国後の人生に彩りを

琉球大学大学院医学研究科感染症・呼吸器・消化器内科学講座(第一内科)教授の山本和子氏は、米国ボストン大学のPulmonary Centerに2009年から4年間、基礎研究留学していた。留学がスタートした当初はうまく行かないことが多く苦労したが、諦めず研究を続けた結果、業績を残しラボにも貢献することができたと振り返る。当時のボスやラボ仲間との人脈は現在も続いており、共同研究や学会招聘などに発展しているとのことだ。ラボ外でもスポーツやパーティーを通じて積極的に交流し、多くの異業種の友人ができたという。

先生プロフィール

琉球大学大学院医学研究科 感染症・呼吸器・消化器内科学講座(第一内科)教授 山本 和子氏

山本 和子(やまもと・かずこ)氏
1999年佐賀医科大学医学部卒業、国立国際医療センター初期研修医。2001年長崎医療センター後期研修医。2004年長崎大学大学院臨床検査医学講座入学。2007年医学博士取得、長崎大学第二内科入局。2009年長崎大学大学院感染免疫学講座助教、米国ボストン大学博士研究員。2013年長崎医療センター呼吸器内科医師。2015年長崎大学病院感染制御教育センター助教。2021年長崎大学病院呼吸器内科講師。2022年琉球大学大学院医学研究科感染症・呼吸器・消化器内科学講座教授、琉球大学病院第一内科診療科長、琉球大学病院感染対策部部長。

――留学期間と留学先から教えてください。

山本 医師になって10年目の2009年から4年間、米国ボストン大学の一部門である肺疾患センター(Boston University School of Medicine, Pulmonary Center)に基礎研究留学していました。ラボのボスはジョセフ・P・ミザード先生(Joseph P. Mizgerd, Professor of Medicine and Virology, Immunology & Microbiology Director, Pulmonary Center)でした。ミザード先生は「肺免疫」研究のパイオニアで、現在も世界を代表する研究者の1人です。肺の感染症と免疫応答の研究が、まだ進んでいなかった時代にGordon Research Conference “biology of acute respiratory infection”を立ち上げて、初代の会長を務められました。私が留学した後、若くして肺疾患センター長に就任されています。


Joseph P. Mizgerd教授

――どのような経緯で留学されたのですか。

山本 私は長崎大学大学院で学位を取得した後、2007年に長崎大学医学部第二内科に入局しました。初期研修が終わったときに感染症を専門にしたいと考えていましたが、医局に所属せず、消化器内科、肝臓内科、呼吸器内科で後期研修を行いました。長崎大学からは感染症分野の指導的な立場の医師・研究者が多く出ていたので、私もそのような先輩方に憧れ入局を希望しました。当時の教授は、後に医学部長、病院長、学長を歴任された河野茂先生でした。

当時の私は世間知らずで、入局した直後に「すぐアメリカ留学したいです」と河野先生に言ったのです。そうしたら先生に「入局して1年目で行かせるわけがないでしょう。まずは医局のみんなと仲間になって、それからです」と言われました。当然ですね(笑)。

入局して早いうちに病棟リーダーに指名され、臨床に一生懸命取り組み、医局内の多くの医師と仲間になることができました。その様子を見て河野先生が2008年の夏頃、「そろそろいいでしょう、来春から留学に行ってきたら?」と言ってくださったのです。「行き先は自分で探しなさい」とのことでした。医局員が留学するときには、河野先生が行き先をアレンジしてくださるのが通例でしたので、珍しいケースでした。私は行き先にこだわりがありそうだと思われたのか、自分で探せるだろうと思われたのか、真相は分かりません(笑)。

――それほど強く留学したいと思った理由は何だったのですか。

山本 私の父は肝臓と脂質代謝が専門の内科医です。若い頃に家族を伴って米国に留学しており、私は小学1~3年生の期間を米国で過ごしました。私は算数が得意だったのでいきなり飛び級で3年生のクラスに編入が許されました。子どもながらに、米国の学校ではそれぞれが得意なことを伸ばしてくれるんだな、と感じたのを覚えています。また、自分のルーツやアイデンティティーをすごく大切にしてくれる社会であるとも感じました。幼少期の米国滞在がワクワク、キラキラした記憶としてずっと残っていて、それが世界に出て仕事をしたいと強く思った理由です。

――半年ほどで受け入れ先を決めて渡航の準備もするのはかなり大変でしたね。

山本 やっきになって探しました。医局の先輩の中には、留学の機会があったのに「今はちょっと無理です、次の機会に」と見送ったがために2度目の機会が巡ってこず、結局行けなかった先生もいると聞きました。だから私には、この機会を絶対に逃したくない、という思いがありました。

1週間で3つのラボの面接を受け2つから有給雇用オファーをゲット

――留学先はどのように決めたのですか。

山本 当時、医局からの留学先は主に真菌の研究をしているラボでした。でも、私は大学院で肺炎球菌の研究をしており、留学先でもそれに関連した研究を行いたかったこと、そして河野教授から「これからは免疫の時代よ」とアドバイスをいただいたこともあり、感染免疫研究を行いたいと考えていました。細菌感染と肺免疫の研究に力を入れているラボは米国でも少なかったので、Keystone SymposiaやGordon Research Conferenceなどクローズドな小規模の学会で中心メンバーになっている先生のラボを狙おうと考えました。実際にすごくアクティビティの高い、先進的な研究をしている先生が何人かいて、そのうちの3人の先生が主宰するラボを候補にしたのです。それがピッツバーグ大学、ワシントン州立大学、そしてボストン大学のラボでした。1週間の夏休みをもらって渡米し、3つのラボを訪ねて面接を受けてきました。

――ハードな日程ですね。

山本 そうですね。可能性があるところは全て回ろうと思って、6日間で米国を横断しつつ3カ所で面接を受ける強行日程を組みました。

――面接はどんな感じだったのですか。

山本 お客さんとして迎えられて、ちょっと挨拶して帰るといった雰囲気では全然ありませんでした。ラボのボスとじっくり面接した後、ラボのメンバーの前で約1時間、自分が行ってきた研究についてプレゼンテーションをします。その内容についてメンバーからの質問を受けて答えます。ランチをラボメンバーと共にとり、隣のラボの教授との面接を設定されることもありました。3カ所でそれぞれ1日がかりの面接を受けました。食事が喉を通らないくらいのストレスでした。結果としては、ボストン大学とピッツバーグ大学のラボから有給雇用のオファーがもらえました。給与の条件はピッツバーグ大学の方が1.5倍くらい良かったです。

――2つのラボから有給雇用のオファーがもらえたポイントは何だったのでしょうか。

山本 もちろん、それまでの研究業績がある程度評価されたことがまず1つです。その上で、ネイティブレベルとはいきませんが、英語が話せてコミュニケーションに問題がないと示せたこと。さらに一緒に働くのが苦痛にならない人物だと認識されたことだと思います。米国のラボでは、大きなプロジェクトを皆で分担して仕上げていくので、人と人との関係がうまく築けないと研究もうまくいきません。だから研究業績だけでなく、コミュニケーション能力や人柄も採用にあたって重要なポイントになります。それは現在も変わっていないと思います。

――河野先生は何と言われましたか。

山本 結果を報告したら、「ピッツバーグ大学のラボに行きなさい」と言われました。そちらの方が大きな業績が出ていたので、私に研究者としてより高みに上ってほしいというお気持ちだったのだと思います。

――にもかかわらず、なぜミザード先生のラボを選んだのですか。

山本 1つには、ボストンの街の雰囲気が気に入ったからです。大学が70くらいある学生の街で、国際性も豊かでした。あとはラボのメンバーの前でプレゼンをしたとき、ボストン大学の方が好意的に感じました。ピッツバーグ大学のラボでは既にライバル視されていたのか、皆ピリピリしていてちょっと悪意を感じる質問もありました。他に選択肢がなかったらピッツバーグ大学に行っていましたが、「あの環境に1人で行ったら、病むかもしれないな」と思い、私の希望を通させてもらってボストン行きを決めました。


Pulmonary Center, Boston University School of Medicine(赤矢印は左から山本氏、Mizgerd教授)

60種類の肺細胞を個別に単離する方法を開発してラボに貢献

――留学先での研究テーマはどのように決まったのですか。

山本 研究テーマは自分で持って行ったわけではなく、ラボが手掛けていた肺免疫に関する研究プロジェクトの1つに入りました。個別のテーマは、ミザード先生が「カズコの将来のキャリアに役立つように」と、肺炎球菌関連のテーマを幾つか選んで「このうちのどれがいい?」と提示してくれました。その中から私自身で選んで研究に取り組んだといった具合です。

――留学での研究成果について教えてください。

山本 まず、「NF-κB RelA(p65)」のコンディショナル・ノックアウトマウスを使って、この転写因子が肺免疫細胞それぞれにおいて、感染症のときにどのような役割をしているのかを解明しました。肺炎球菌肺炎が起こったときに、マクロファージが初動して特異的なサイトカインを放出し、好中球を肺に呼び込む仕組みなども解明しました。

しかし私のラボへの貢献で一番大きかったのは、これらの研究を遂行する過程で、60種類以上ある肺の細胞をバラバラにして、肺の上皮細胞を単離する方法を開発したことだと思います。この方法では、肺の上皮細胞のリカバリー率が80~90%に達します。今ではシングルセル解析が発展していますが、当時は血球は分離できたものの、肺の上皮細胞を生きたまま組織から直接単離することが難しかったのです。それまでは肺の多種類の細胞が混在する試料で炎症マーカーを観察しても、どの細胞がサイトカインを産生しているのかが分かりませんでした。留学2年目に研究の進捗についてミザード先生と1対1でディスカッションしていたとき、「肺の細胞の単離ができるといいね」という話があり、「じゃあ、やってみます」と開発に乗り出しました。約半年かけて完成させました。

――どのようなブレークスルーがあったのですか。

山本 細胞をバラバラにする酵素と作用させるプロセスについて、文献をたくさん読んでヒントを得ました。血球をディスパーゼという酵素を使って分離する方法は当時からよく試みられていました。しかし、それを肺の組織に応用すると上皮細胞が分解されてしまい、ほぼ残らないのです。それで、肺の細胞の間隙だけをきれいに除去してバラバラにするために、精密に酵素活性を評価しつつ様々な酵素を試しました。最終的にはブタの脾臓のエラスターゼを使うことで、うまくいったのです。ヒトの手術検体から上皮細胞の分離を試みた報告が参考になったように記憶しています。

――その成果について、ミザード先生は何と言われていましたか。

山本 最初に報告したときには、「これは器用なカズコだからできるのか、誰でもできるのかを確認してほしい」と言われました。普遍性、再現性があるかどうかが科学として重要だということです。それでラボ内の大学院生を数名連れてきて、実際に私が開発した方法で肺の細胞を単離してもらったところ、うまくいったのです。その結果を見てミザード先生はすごく喜びました。「カズコ、本当にすばらしい方法を確立したね」と。現在もその方法は「カズコが編み出した単離方法」としてミザード先生のラボで受け継がれているようです。ラボの同窓会などに行くと今でも、全然知らない若い大学院生に「あなたがあの単離法を確立したカズコね!」と話しかけられます(笑)。

2011年米国胸部学会(ATS)で受賞したときの写真(左)と、河野茂教授がボストン大学を訪ねて来られたときの写真(右)

留学当初は失敗ばかり、「自分には存在意義がない」と思ったことも

――最初からラボでの活動は順調だったのですか。

山本 いえ、そんなことはありません。まず英語で苦労しました。ミザード先生はユダヤ系ボストニアン(ボストン市民)で元々英語が早口なのです。しかも根っからのサイエンティストで、議論が白熱してくると拍車がかかって、さらに早口になります。ミザード先生の英語が聞き取れたら、他の米国人の早口なんてどうってことはないというくらい、とにかくすごいスピードで話すのです。しっかり聞き取れるようになるまで、相当時間がかかりました。

研究もすぐには結果が出ませんでした。最初の半年くらいは実験もネガティブデータばかりでした。カンファレンスでも、ほとんど議論に参加できませんでした。自分の研究の進捗を皆の前でプレゼンしたときも、私を置いて聴衆の間だけでワーッと議論が盛り上がったりするのです。私がプレゼンターなのに議論に入っていけないのです。米国のラボでは、カンファレンスで発言しない人は出席していないのと同じです。この頃は本当につらかったです。自分には存在意義がないんじゃないか、何しに米国まで来たのだろうとさえ思いました。

――転換点はどういったことだったのですか。

山本 0がいきなり100になることはありません。地道に研究を積み重ねて、次第にポジティブデータが出るようになりました。自分自身のデータが出せるようになると、ラボの皆に意見を求められるようにもなりました。少しずつ積み上げたものが実を結び、ラボ内で自分の役割が確立していったということだと思います。

ラボの同窓会に毎年出席、共同研究につながることも

――留学中に培った人脈は現在も生きていますか。

山本 そうですね。この歳になって振り返ると、留学していたときの交流がすごく生きているなと感じます。まずラボ内での交流ですが、現在も米国胸部学会(ATS)が開催される時期に合わせて、ボストン大学肺疾患センターのアルムナイ(Alumni association、同窓会)の招待状が送られてきます。現在もセンター長であるミザード先生は、ラボで働いた歴代の研究者のネットワークをすごく大事にしていて、アルムナイが毎年開催されるのです。入れ替わり立ち代わり、毎年100人を超えるOB医師・研究者がやって来ます。私も毎年参加しています。アルムナイが共同研究のきっかけになることもあります。実際にアルムナイで、「ATSのあの発表はとても良かったね、うちと共同研究をやりませんか」といったオファーをもらったこともあります。2025年10月に私が会長として主催した、第95回日本呼吸器学会九州支部 秋季学術講演会の特別講演としてミザード先生を沖縄にお招きし、大変喜んでいただきました。

ラボで一緒に働いた日本人医師との交流も続いています。留学がスタートした当初、肺疾患センターに所属する日本人は私1人だけだったので、面識がない日本人医師からも「ラボの様子を教えてほしい」と連絡をもらうことがよくありました。私は異国で日本人同士が助け合うことは大事だと思っていたので、できるだけサポートするよう心掛けていました。

ミザード先生のラボへの留学を希望して私に問い合わせてきた医師の1人が、当時は慶應義塾大学に在籍していた鎌田浩史先生(現・埼玉医科大学呼吸器内科教授)でした。全くの初対面だったのですが、面接の前にお会いして、アピールするべきポイントや気を付けるべき点などについてアドバイスしました。面接がうまく行って鎌田先生も採用されたため、1年くらい同じラボで働きました。たったの1年ですが、お互いにとってかなり濃い時間として刻まれており、帰国後も連絡を取り合い、学会のときには食事を共にして近況報告し合っています。


研究室での最後の勤務日に(赤印は左からMizgerd教授、山本氏、鎌田浩史先生)

異業種の人とも交流、モチベーションを高め合える大切な友人に

――ラボ外での交流はどうでしたか。

山本 米国では趣味として、週末などにテニスやゴルフをやっていました。住んでいたアパートにパーティールームがあったので、私自身が主催して50~60人集まるパーティーを開いたりもしていました。そんな機会に、異業種の人と知り合うことができました。当時出会って友人になり、現在も定期的に会う人がたくさんいます。金融のプロフェッショナルの人とか、自分が立ち上げた会社が大きくなって上場企業の社長になった人もいます。そういった異業種の人たちと付き合うのはすごく楽しかったですね。

――それは人脈を作りたい、といった目的でやっていたのですか。

山本 いえ、ただ単にスポーツやパーティーが好きだっただけです。そんな下心があったわけではありません(笑)。留学期間に友人になった異業種の人たちとの関係は、直接、仕事に役立つことはほとんどありません。でも、人生において本当にありがたい友人たちです。医局の教授になると、利害関係がある近い人たちには話せないこともあります。トップは職場では孤独です。異業種の友人たちと話をする中で、何かヒントがもらえたり、モチベーションを高めてもらえたりすることもあります。

「今は行けない理由」を探すのではなく「どうやったら行けるか」を考えて

――最後に、これから留学を目指す若い医師にアドバイスをお願いします。

山本 若い人に一番伝えたいのは、留学したいと思ったら、できるだけ早く行ってほしいということです。残念ながら人生において、挑戦のモチベーションを高い状態に保つことは容易ではありません。40歳よりも35歳のときに、35歳よりも30歳のときに。若くエネルギーがみなぎっているうちに行った方がいいと思います。

「今行けない理由」は、探せばいくらでもあります。「自分が職場を離れると他の人に迷惑をかけてしまう」「子どもがまだ小さい」「お金が貯まっていない」「円安だし」と、理由は無限に見つかります。そうではなくて、本当に行きたいなら、困難な理由があったとしても「じゃあ、どうやったら行けるのか」を考えてほしいと思います。

留学先の探し方についてですが、特定の研究テーマを手掛けているラボに留学したいなら、アクティビティが高い小規模な学会に参加してみることをお勧めします。そのような学会は人と人との距離感が近くて、中心人物と話がしやすいからです。中心にいる先生のラボを狙うのもいいですし、その先生から留学先についてアドバイスがもらえる可能性もあるでしょう。


第95回日本呼吸器学会九州支部秋季学術講演会開催時(2025年10月)の特別講演にて(Mizgerd教授、国立感染症研究所の俣野哲朗所長と)

──留学が実現した後のアドバイスもお願いします。

「失敗を恐れないで」ということです。研究がちょっとうまくいかないと「自分は研究に向いてないんだ」「ダメなんだ」と、やる気をなくして諦めてしまう人がいます。先ほど話したように、私も留学がスタートして最初の半年は失敗の連続でした。でも諦めず必死で研究を続けました。最初に失敗するのは当たり前なんです。失敗を乗り越えた人だけが、その先の良い景色を見られます。失敗をいとわずどんどん挑戦してください。

留学に行かなくても、オンラインのミーティングでいくらでも世界とつながれるじゃないか、と言う人もいると思いますが、現地で生活してラボで働くのは全然違います。現地の空気と人を自分の肌で感じることこそ人生に大きな意義があります。私自身、留学をして物事の考え方や関わり方が変わり、後のキャリアの様々なところで生きていると感じます。例えば世界では、多様性が当たり前です。いろんな人がいて、皆考えが違うんだといった意識が身につきます。留学を通じて、人間としても一回り大きく成長できたと感じています。

琉球大学第一内科も、留学する人がたくさん出る医局にしたいと思っています。地域医療を支えつつ留学に人を送り出すためには、医局員を増やす、高いレベルの専門医を育成するなど、医局のトップとしてやらなければいけないことが多くあり大変ですが、頑張ります。まずは記念すべき1人目の海外留学者を出し、2年間で成長して今春に帰ってきましたので、これから毎年海外への留学者を出し続けるよう、さらに活発な医局に育てていきたいです。

閲覧履歴
お問い合わせ(本社)

くすり相談窓口

受付時間:9:00〜17:45
(土日祝、休業日を除く)

当社は、日本製薬工業協会が提唱する
くすり相談窓口の役割・使命 に則り、
くすりの適正使用情報をご提供しています。