近森病院(高知市)リウマチ・膠原病内科科部長の吉田剛氏は、2024年7月から1年間、米国ジョンズ・ホプキンス大学病院へ臨床留学した。学生時代に手にした書籍『アメリカ臨床留学への道』をきっかけに準備を始め、卒後10年以上が経過した後に、臨床研究を充実させるためフェロー(専攻医)として米国に渡った。それは、自身の医師としてのキャリア形成にかなうよう努めた成果とも言える。
先生プロフィール
近森病院 リウマチ・膠原病内科部長 吉田 剛氏
吉田 剛(よしだ・たけし)氏
2007年鳥取大学医学部医学科卒業、沖縄県立中部病院(研修医)。2011年沖縄県立北部病院内科。2012年沖縄県立中部病院内科。2017年近森病院リウマチ膠原病内科。同年徳島大学大学院臨床神経科学分野博士課程。2024年米国ジョンズ・ホプキンス大学病院リウマチ膠原病内科留学。2025年より現職。極真空手初段で全日本大会出場歴もある。
——まず、留学の期間と留学先を教えてください。
吉田 私は2024年7月から1年間、米国メリーランド州ボルティモアにあるジョンズ・ホプキンス大学病院に、臨床フェローとして留学しました。私が所属した同病院のリウマチ膠原病内科は、20年連続で全米トップにランクされていました。

宿舎から眺めるジョンズ・ホプキンス大学医学部のビル群。
——留学の準備はいつ頃から始めたのですか。
吉田 実は、留学を意識し始めたのは20年ほど前、医学部2年生の時です。図書館でたまたま見つけた書籍『アメリカ臨床留学への道』を読んだことがきっかけです。米国への臨床留学は難関であることは理解していましたが、自分の意思で医師としてのキャリア築いていく生き方に憧れました。臨床留学に必要な資格であるECFMG(Educational Commission for Foreign Medical Graduates) certificateを取得するために必要なUSMLE(United States Medical Licensing Examination)の受験準備も、当時、空手部の稽古や国試の勉強と並行して進めていました。
卒後の臨床研修先は臨床留学を志す研修医が多い病院を探し、沖縄県立中部病院に入職しました。果たして同期には同様に臨床留学志望者が多く、早い人で2年間の臨床研修を終えるとすぐに米国に留学した医師もいましたし、留学準備を兼ねて沖縄や横須賀の米海軍病院に移る医師もいました。私は臨床研修終了時点で臨床医として十分に成長できたという自信をまだ持てなかったので、同病院の後期研修プログラムでさらに2年間勤所属して実力を付けることにしました。その後、沖縄県立北部病院へ1年間派遣され、この時にUSMLEのStep 2合格し、ECFMG certificateを取得しました。
研修先は臨床留学希望者が多い病院を選択
——留学先はどのように決めたのですか。
吉田 沖縄県立中部病院での研修医時代に、『アメリカ臨床留学への道』の著者の1人で、リウマチ・膠原病領域を専門にされている金城光代先生に指導いただき、一緒に診療していく中でこの領域に興味を持ち、専攻の1つにしたいと考え、研鑽を積みました。その後、2017年に近森病院に入職した頃から具体的な留学先を探し始めました。関節リウマチや筋炎といったリウマチ性疾患の画像診断の研究に取り組む中で、2019年に参加した米国の学会でジョンズ・ホプキンス大学リウマチ膠原病内科で筋炎の画像診断を専門とするJemima Albayda先生とお話しする機会があり、その場で同病院への留学の内諾を得て、留学先を決めました。
しかし、その後のコロナ禍で海外からの留学受け入れが停止され、再開まで待たねばなりませんでした。2023年の受け入れ再開後、改めて臨床留学の手続きを進めていたところ、ジョンズ・ホプキンス大学病院で診療する場合はUSMLEのStep 3までの合格が必要であることが判明し、急ぎ準備して受験しました。Step 3の試験は米国内でしか受験できません。日本との時差が1時間のグアムの会場は受付枠が小さくすぐに埋まってしまい、仕方なく時差19時間のハワイの会場で受験しましたが、無事合格できました。
さらに、臨床留学用のビザの発給や米国での滞在先確保の手続きが進まず、渡米時期がなかなか決まりませんでした。その間は大きなストレスを抱えた状態で数カ月過ごすこととなりましたが、様々な書類の作成や当時担当していた患者さんの引き継ぎなどで川井院長、公文部長をはじめとして近森病院の皆様には手厚く配慮していただきました。2024年5月から病院を休職して待機し、6月にビザを取得。7月に手続きが完了し渡米し、留学生活をスタートさせました。
留学先のリウマチ・膠原病内科のフェロー、指導医、スタッフの面々。吉田氏は最後列右端。
1時間以上かけて患者と話し合う診療スタイル
——ジョンズ・ホプキンス大学病院での臨床経験の実際は。
吉田 既に日本でリウマチ領域の専門診療や研究に従事していたため、ローテンションで診療科を回るレジデント(臨床研修医)ではなくフェロー(専攻医)として留学した点がポイントです。特に、私の専門分野である筋炎を主として診療する筋炎センターにおいて、外来診療と検査に従事しました。私の研究テーマは主に筋炎の画像診断であり、データ取得のためにはエコー検査を実施します。当然、検査時には患者さんに触れるため、その点においても、患者さんの診察に必要な臨床の資格は必須でした。
ジョンズ・ホプキンス大学病院のリウマチ領域の専門外来は「超」が付くほどの専門外来です。普段は地元の医師を受診している患者さんが、治験や臨床研究に協力するために半年に1度くらいの頻度で受診する他、他の大学病院では対応できなかった患者さんも全米から集まってきます。
私が主に勤務していたジョンズ・ホプキンス筋炎センターの外来診療では、まず私が20〜30分かけて予診し、診断や治療計画などを指導医にプレゼンします。これを受けて指導医が診察して患者さんとディスカッションしながら治療計画を決定していきます。日本では、いわゆる「3分診療」で1日に数多くの患者さんを診察していきますが、同病院の外来ではリビングルームにあるようなリクライニングする椅子に患者さんが腰掛け、医師は立ったまま診察します。エコー検査など必要な検査や処置などはこの時間には含まれません。診察そのものも、日本の医師-患者関係とは異なり、患者の自己決定や立場をより尊重するパートナーのような関係に近いと感じました。
自分の研究などのために協力を依頼したい患者さんに連絡して、受診の約束を取り付けることも頻繁にありました。通常の診察レベルの英会話はできていましたが、面識のない患者さんに電話でアポイントを取る際はとても緊張しました。

診察中の患者が座るリクライニングする椅子。医師は立ったまま診療する。
——他にどのようなところが日本の病院と異なっていましたか。
吉田 日本では、リウマチ・膠原病内科が単一の診療科としてリウマチや膠原病を幅広く診療しますが、ジョンズ・ホプキンス大学病院をはじめ米国の主要大学病院では、関節炎、全身性エリテマトーデス、炎症性筋疾患など疾患ごとに専門チームが形成されており、それぞれが担当します。新患は紹介状をスクリーニングして適切に割り振られます。
ジョンズ・ホプキンス大学病院で導入している電子カルテは全米の大学病院で80%のシェアを占めているEPICシステムです。このシステムは汎用性の高さが特長です。患者さんの紹介元の病院の診療内容を確認できる他、患者さんと医師、あるいは医師同士でメッセージのやり取りができるため、紹介状やその返書を改めて書く必要がありません。動画による遠隔診療にも対応していますし、自宅など院外からもシステムにアクセスしてカルテに入力することもできます。とても使いやすいと感じました。
患者は研究協力者・パートナーとしての側面も持つ
——研究活動としての取り組みはどのようなものでしたか。
吉田 1年間を通して筋炎の患者さんの診療と並行してエコーのデータを蓄積できたことは大きな収穫でした。同時に過去のエコーのデータの解析も行うことができ、日本のコホートとの比較検討も行ってきました。2024年11月にワシントンD.C.で開催された米国リウマチ学会で、日本にいた時から取り組んできたリウマチ・膠原病の超音波診断に関する研究の内容を発表し、多くの第一線に立つ研究者と議論する機会を得ました。また、執筆中の論文も含め、5編の論文を執筆することができたことは大きな収穫となりました。
このように研究環境に恵まれたため、日本にいる時と比べて、より多くの症例を検査したり、多数の症例データにアクセスしたりできました。また、同じ専門分野の研究者とディスカッションする機会も豊富であり、これまでにないアイデアが生まれることも度々ありました。さらに、北米の医学雑誌に総説を執筆したり、レビュアーとして査読したりしました。研究そのものだけでなく、研究者としての充実した交流を経験できました。

24年11月にワシントンD.C.で開催された米国リウマチ学会の様子。

米国リウマチ学会の発表ポスターの前で指導医のAlbayda医師と。
倹約しつつも米国東海岸都市へ旅行する
——米国には家族もご一緒されたのですか。
吉田 渡米の際は家族も一緒でしたが、残念ながら1カ月間だけ滞在して夏休みの終わりと共に帰国してしまいました。それでも2人の子どもたちにとっては記憶に残る経験となったようです。妻は私の米国臨床留学志望を理解し、応援してくれていました。今回、留学を果たせたのも妻や義母のおかげと、感謝しています。
——言葉の壁など生活で困ったことはありませんでしたか。
吉田 診療や指導医とのディスカッションなど1対1のコミュニケーションはまず問題なかったのですが、カジュアルな場面で複数のネイティブスピーカーの輪の中で話す場面にはなかなか慣れませんでした。ネイティブといっても出身地によって発音や語彙が異なるため、聞き取りに苦労しました。
生活面では、ちょうど円安でしたので、食品をはじめ物価が高い上、日本で用意した留学資金が円安で目減りしていきました。自炊用の食材は、比較的安価なアジア食料品のオンラインマーケットで購入していました。ランチは病院内のカフェテリアでランチやサラダバーをよく利用しました。外食にしては安価ですが、それでも8~10ドルほどです。
住んでいたのは病院から歩いて5分ほどの病院関係者や学生用の寮でした。たまにビールを飲もうと思っても近所のコンビニエンスストアでは販売していません。治安が良くないエリアにある酒屋に行かないと買えないので、車を持っていない私は誰かの車に便乗して連れて行ってもらうしかありませんでした。
とはいえ、倹約一辺倒ではなく、機会があれば旅行にも行きました。東海岸の都市は鉄道で移動できるので、ニューヨークやフィラデルフィア、ワシントンD.C.などに出かけて、タコスやチーズステーキなど各地の名物料理も楽しみました。

ニューヨーク旅行で食した名物のタコス
目標だった臨床留学を終えて得た達成感
——今回の留学ではどのような収穫がありましたか。
吉田 臨床研究のために臨床留学にこだわったのですが、患者さんを中心に置いて指導医とのディスカッションを経験できたことは大きな収穫でした。研究面でも、多くの研究者とのコミュニケーション・ネットワークを拡大できたことは何ものにも代えがたいです。ICTの普及により、米国など遠隔地との連絡は容易になりましたが、小さなきっかけから互いの専門性を理解していくプロセスには、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションがはやり適しています。
日米の医療制度の違いもあり、診療スタイルはそのまま持ち帰ることはできませんが、指導医と一緒に患者さんのベッドサイドに行って実施するティーチングラウンドなどは沖縄県立中部病院時代に実践してきたものと同じであり、これまで私が学んできたことは間違っていなかったと確信でき、自信につながりました。米国暮らしを1年乗り切ったことで、精神的にもたくましくなったように思います。

フェローと共に教授宅でクリスマスパーティー。
——これから留学を目指している後輩にアドバイスをお願いします。
吉田 私自身、当初は米国へ臨床留学することそのものが目標だったように思います。しかし、医師としてのキャリアを歩む中で、次第に今の自分に必要なものを得るための留学とは何かを考えるようになりました。最終的に専門医としてリウマチ画像診断の研究を発展させることのできる留学先に出合えました。米国への臨床留学は資格取得のハードルが高いですが、学生時代に抱いた憧れを胸に、様々な障壁を乗り越えて今回の留学を達成したことで大きな達成感と自信を得ることができました。
そのような経験から、全ての人に臨床留学を勧めることはありませんが、臨床留学を検討している人には、「それはチャレンジするだけの高い価値があるはず。ぜひ実現してください」とエールを送りたいと思います。





























