道東の地域中核病院で研修医を熱血指導

北海道の東部、釧路・根室三次医療圏の面積は、東京・埼玉・神奈川の1都2県の合計とほぼ等しい。この広い医療圏をカバーする地域中核病院の一つである釧路ろうさい病院内科は、副院長兼内科部長の宮城島拓人氏による研修医の熱血指導で知られる。大学を卒業したばかりの初期研修医に、患者の主治医となることを課し、消化器内視鏡検査の手技習得を徹底するなど、独自の研修医教育に取り組む宮城島氏に、その狙いと成果を聞いた。

釧路ろうさい病院 内科
(北海道釧路市)

釧路ろうさい病院は24診療科433床を有する。その診療圏は広く、北は羅臼町から本土最東端の根室市にまで及ぶ。

 釧路ろうさい病院の宮城島氏は2021年11月、異例の医学書を出版した。その名も『Dr.ミヤタクの研修医養成ギプス』。往年の野球マンガ『巨人の星』の大リーグ養成ギプスを意識したタイトルで、書籍を手に取ると、劇画タッチのユニークなイラストが目に飛び込んでくる。 

 とはいえ内容は、いたってまじめだ。「わたしが実践してきた研修医指導内容とその方法論」というサブタイトルが示す通り、宮城島氏がこれまで取り組んできた研修医教育に関する哲学とノウハウが詰まった一冊となっている。知り合いの医師が出版した書籍に推薦文を書いたことがきっかけで出版社からオファーを受け、書籍化につながったという。 

 「コロナ禍で飲みに出る機会がなくなっていたこともあり(笑)、じゃあ書いてみようかな、と。自分の30年の歩みを書けばいいかと思って取り組み始めたところ、書きたいことがどんどん浮かんできて、2カ月くらいで書き上げました」と宮城島氏は話す。

 宮城島氏の著書『Dr.ミヤタクの研修医養成ギプス』(金芳堂)。表紙の劇画調のイラストが特徴的だ。

初期研修医をすぐ主治医に、「責任は俺がとる」 

 では、医学書の出版社も注目した、宮城島氏の研修医教育とはどのようなものなのか。最も特徴的なのは、大学を卒業したての研修医であっても一人前の医師として扱いながら、実践的な指導を進めていくことだ。 

 そうした方針を採る理由について、宮城島氏は次のように語る。「当院が位置する釧路・根室三次医療圏は、医師が潤沢にいるわけではありませんので、研修医をいかに早く一人前に育て上げ、スタッフとして一緒にやっていけるようにするかが重要なのです。そうしなければ、この地域の医療は成り立たないからです」。 

 こうした宮城島氏の考えに基づき、釧路ろうさい病院の内科に着任した研修医は、当初から主治医として患者対応を任されることになる。「医者にとって何が大事かといえば、技術や知識よりもまず、自分が対峙する患者や家族に対して責任を持つことです。ですから研修医には、最初から主治医として患者や家族に対応させることにしています。不安げな表情を見せる研修医には『まずやってみろ。責任は俺が取る』と声をかけています」と宮城島氏は語る。 

 もちろんその過程では、患者や家族が研修医に対し、「なんだこの若造は」とか「医者になりたてのくせに」といった反応を見せることもある。だが、そうした患者たちと対話を重ねつつ、医師としてのプライドと責任感を持って必要な事柄を伝えていくよう努力することが、一つの修行になるというのが宮城島氏の考えだ。「実際に不安を訴えてくる患者さんもいますが、私たち指導医が後ろに控えていると説明することで、研修医が前面に立つことに納得してもらっています」と言う。 

 もう一つ、釧路ろうさい病院の内科が着任当初から研修医に課していることに、消化器内視鏡検査の手技習得がある。他の研修指定病院では、2年目以降にしか学べなかったり、学べても補助的な役割しか担えなかったりする内視鏡検査の手技を、釧路ろうさい病院の研修医はみっちりとたたき込まれることになる。 

 「医師になりたての頃というのは、とにかく技術を身に付けたい、成長を実感したいという気持ちが強いものですが、内視鏡検査はそれに打って付けなんです」。こう語る宮城島氏は「同級生だった他の病院の研修医がやっていないことを先んじてマスターできることは、医者として良い意味でのプライドを持つことにつながります」とも付け加える。

研修医への内視鏡検査指導。右端が宮城島氏。(同氏提供)

「広く浅く」でも「狭く深く」でもない「広く深く」 

 このように、早い段階から初期研修医に多様な経験を積ませることを重視している釧路ろうさい病院内科だが、一方で後期研修医に対して宮城島氏は「広く深く」学ぶことの重要性を説き続けている。診療科の壁を越えて「広く浅く」地域医療に携わる家庭医的な医師でもなく、スペシャリストとして特定の分野のみに「狭く深く」関わる医師でもない、サブスペシャルティをしっかり持ちつつどんな患者も診られる内科医を目指せというメッセージだ。 

 「研修医に目指してもらいたいのは、幅広くしっかりとした土台の上に突き抜けた高さを持つ、東京タワーのような内科医像です。『広く深く』と言うと大変に思うかもしれませんが、研修医として過ごす数年間は、そういった意識を持って診療に当たることが非常に大切です。そもそも、そうでなければ面白くないですから。あえて当院を選んで研修に来る医師は『広く深く』を目指すケースが多いですね」(宮城島氏)。 

 釧路ろうさい病院の内科は、カンファレンスの密度が濃いことも特徴的だ。内科には、宮城島氏を含む10人の消化器内科医と3人の血液内科医、それに数人の研修医が所属しており、全員が集まるカンファレンスを毎週行っている。そこで研修医は、主治医として自らが担当する症例をプレゼンするのだが、先輩の医師からは「なぜこの検査をするのか」「どうしてそう診断できるのか」など思考過程を問う厳しい質問が次々と飛ぶ。こうした経験を繰り返すことで、研修医は鍛えられていく。 

 初期研修の当初から主治医として患者に責任を持つ役割を担い、先輩医師からの厳しい質問を浴びせられ、さらには内視鏡検査の手技習得も徹底される釧路ろうさい病院内科は、研修医にとっては厳しい環境と言えるだろう。同内科は北海道大学第三内科の関連施設の一つだが、大学医局にもその厳しさは知れ渡っており、若手医師を鍛え直す場として「宮城島再生工場」の異名を取るほどだ。 

 だが一方で、そうした雰囲気に魅力を感じて研修先に選ぶ若手医師もいる。「ウチの若手は、ここで研修を受けた先輩からの口コミで来るケースが多いですね。研修が終わった後の送別会では、みんな名残惜しくて泣いたりするのですが、彼らがウチの研修の良さを周りに話してくれるんです」と宮城島氏は誇らしげに話す。早い時期から内視鏡検査の手技が学べることを口コミで知り、釧路ろうさい病院内科の門をたたく若手医師も少なくないという。 

近隣病院との連携で「研修医を一緒に育てる」 

 とはいえ、一病院で全ての研修ニーズを満たすことは容易ではない。どの病院にも得意な分野と、そうでない分野があるからだ。釧路ろうさい病院の内科も、消化器内科と血液内科、腫瘍内科に強みを持つが、膠原病や腎臓内科などは得意分野と言えない状態にある。この限界を克服するために宮城島氏が取り組んだのが、得意分野を異にする他病院との連携だった。 

 きっかけは、新臨床研修制度の導入に伴う医師の引き揚げによって2007〜2008年に、釧路ろうさい病院から循環器内科と産婦人科、小児科がなくなったことだった。病院の運営や地域医療に深刻な影響が及ぶことはもちろん、研修医が経験できる分野にも偏りが生じることを懸念した宮城島氏は、近隣の釧路赤十字病院に声をかけ、診療と研修医教育における協働をスタートさせた。 

 「日赤」のNと「ろうさい」のR。両病院の頭文字を取って「NRホスピタル構想」と名付けられたこの連携では、それぞれの病院が強みを持つ分野の患者を紹介し合ったり、片方が手薄な診療科について他方が外来診療の支援をしたりという協力関係が形作られている。「周産期医療や小児科に強みをもつ釧路赤十字病院に対し、当院には向こうにない消化器・血液・腫瘍内科や脳外科、放射線科がそろっています。全く経営基盤が違う病院ですが、距離が近いことに加え、互いに機能を補完できる関係にあったことで連携がうまくいきました」と宮城島氏は言う。 

 こうした連携関係により、両病院の間で「研修医を一緒に育てよう」という機運が高まったのは自然の成り行きだった。連携が始まった翌年には、互いが研修の基幹病院としての役割を果たしつつ他方の協力病院としても登録することにより、研修医が必要に応じて2つの病院を行き来できるようにした。「研修医を一つの病院でなく釧路で育てる」(宮城島氏)というスタイルが実現することになった。 

 そして2020年からは、この連携の輪に市立釧路総合病院が加わった。ハートセンターを擁し、循環器や胸部外科に強みを持つ同病院の連携への参画は、診療面での相互補完はもちろん、研修医教育にもさらなる充実をもたらした。「オール釧路で研修医を育てようというのは、私がずっと言ってきたことです。まだ完全ではありませんが、その実現に大きく近づいたと考えています」(宮城島氏)。 

様々な経験を積んで帰ってくる元研修医たち 

 宮城島氏が釧路ろうさい病院に着任したのは、北海道大学大学院を卒業した1993年のこと。以来30年、同病院に腰を据えて、地域医療に邁進しながら若手医師の育成に当たってきた。指導医としてこれまでに育てた研修医は100人を超える。その中には、研修後に他の病院に勤務した後、再び釧路ろうさい病院へと帰ってきた医師もいる。海で育った後に産卵のため生まれ故郷の川に帰ってくる鮭に例え、宮城島氏は愛着を込めて、これらの医師を「カムバックサーモン組」と呼んでいる。 

 現在、釧路ろうさい病院で腫瘍内科部長を務める澤田憲太郎氏も、そんなカムバックサーモン組の1人。同病院で初期・後期研修を受けた後、国立がん研究センターをはじめ様々な病院に勤務し、2020年にカムバックした。その澤田氏が研修医時代を振り返る。「これまでいろいろな病院を回りましたが、やはり釧路ろうさい病院は厳しい部類の病院に入ると思います。ただ、早くから主治医を任されることで、自分でなんとかしなければという危機感を持ち、強い使命感を感じるようになったことは確かです」。 

 その澤田氏は今、腫瘍内科の専門医として、日々の診療と後進の育成に当たっている。「私は国立がん研究センターなどで最先端の化学療法を学び、その成果を地元に還元したいと考え釧路ろうさい病院に帰ってきました」と澤田氏。地域医療の現場にあっても大学病院に負けない医療を提供するという志は、宮城島氏とも共通するものだ。宮城島氏が立ち上げ、現在は澤田氏が中心的な役割を果たしている同病院の外来化学療法センターは、釧路・根室地区を広くカバーし、年間6500人もの患者を受け入れるまでの規模になっている。

「カムバックサーモン組」の1人で腫瘍内科部長を務める澤田氏(左)と、年間6500人の患者を受け入れている外来化学療法センターの処置室(右)。同センターには1日がかりでやってくる患者も多いため、快適性を重視した環境を重視している。

 「最後の仕事」は医師の働き方改革への対応 

 これまで30年にわたり地域医療に打ち込み、多くの若手医師を育ててきた宮城島氏も60歳を超えて久しい。だが、まだ解決しなければならない課題が残っていると言う。それは医師の働き方改革だ。2024年から医師の時間外労働にも上限規制が適用されるが、その対応に頭を悩ませている。 

 「これまでは医者の頑張りでなんとか地域医療を支えてきましたが、これからの時代は時間管理が必須になります。でも、今の医者の人数でこの地域の医療が成り立つかと言えば、それは難しい。医者を守るのはいいけれど、それでは地域が守れないわけです」。こう語る宮城島氏が続ける。「僕が最後にやらなくちゃいけない仕事は、働き方改革に沿った医者の働き方を整備しつつ、それを地域医療と両立させていくことだと思っています。これを解決するまでは辞めるわけにはいきません」。 

 医師の働き方改革への取り組みは、これからが本番といえる。宮城島氏の挑戦は、まだしばらく続くことになりそうだ。

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宮城島 拓人(みやぎしま・たくと)氏

1984年北海道大学卒、同大学第三内科入局。1985年釧路ろうさい病院内科医、1993年同大学大学院卒、釧路ろうさい病院内科副部長。1994年同病院内科部長、現在に至る。2004年より同病院副院長を兼務。2008年北海道大学病院客員臨床准教授、2017年同大学病院客員臨床教授。HIV診療をきっかけに、2001年より20年以上にわたりケニアでの医療支援にも取り組んでいる。

 

 

 

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