病院設置の翌年、1982年からの歴史を紡ぐ琉球大学大学院医学研究科 整形外科学講座。「手の外科」の名門として名を馳せてきたが、2019年にはそれまで手薄だった脊椎外科の専門医、西田康太郎氏を第3代教授に招聘。以前なら本土に送られていた脊椎腫瘍や症候性側弯などの患者の治療を県内で可能にし、県内完結型の整形外科医療の構築に取り組んでいる。県内の主要病院と連携体制を構築する一方、研修プログラムの充実により専門医育成にも注力するなど、将来を視野に入れた医療体制の充実に余念がない。
琉球大学大学院医学研究科 整形外科学講座
琉球大学大学院医学研究科 整形外科学講座
医局データ
教授:西田 康太郎 氏
医局員:25人
病床数:40床弱
関連病院:約20病院
琉球大学大学院医学研究科 整形外科学講座の開講は、琉球大学に医学部が設置された翌年の1982年に遡る。初代教授に就任した茨木邦夫氏が組織した「手の外科」グループは、今も同講座の主力であり続けている。その後、2000年には第2代教授に金谷文則氏(現・医療法人積発堂理事長)が就任。その後を継いで第3代教授に着任したのが、神戸大学から赴任した西田康太郎氏である。
西田氏は兵庫県川西市の出身。鳥取大学医学部を卒業した後、両親が住む兵庫県に戻るため神戸大学の整形外科に入局し、ノイヘレン(ドイツ語由来の表現で「下働き担当の1年生医師」の意)として医師人生のスタートを切った。「学生時代、どの診療科に進むかで迷ったこともありましたが、手先が器用で工作好きだったことから“患者さんの身体を手がける宮大工”を目指して、整形外科に進むことにしました」と語る。
何もできなかった若い骨肉腫患者への思いが医師としての原点に
整形外科で腫瘍班に入った西田氏は、20歳代以下の骨肉腫患者を担当することになった。効果が高い治療法が確立されていなかった当時、西田氏は1年間で4人の患者を看取ったという。
「4番目に看取った19歳の女性患者さんに、自分ではほとんど何もできなかったので、情けなさからタコ部屋(研修医の控え室)に籠もって大泣きしました。この経験をきっかけに、患者さんを救うための研究の必要性を痛感し、この時の思いが、私の医師としての原点になりました。その後、大学院で悪性腫瘍の転移を研究して、何もできなかった患者さんへの供養の気持ちも込めて、論文にまとめました」
医師2年目に入った西田氏は、研修先を国立神戸病院(現・独立行政法人国立病院機構神戸医療センター)に移した。そこで出会った鳥取大学の先輩である故・片岡治氏に憧れ、片岡氏が専門にする脊椎外科医を目指すことに決めた。そして、医師3年目からは、大学院に進学し、神戸大学医学部病理学第2講座で前述の転移の研究を始めた。そこで培った分子生物学に関わる基本的な技術が、後に役に立つことになる。
大学院在学中、西田氏に米国ピッツバーグ大学への留学話が持ち上がった。「膝の研究をするつもりで留学を決めたところ、先方は私のバックグラウンドを尊重して、脊椎関連の研究をするよう指示してきました。しかも、私が分子生物学の知識を持っていることから、椎間板の遺伝子治療プロジェクトを任されることになりました」と西田氏。「世界初の試みに面白みを感じ、留学期間を2回延長いただいて計3年半、米国に滞在しました。その間、あちらこちらで研究成果を発表し、様々な賞を頂きました」とも言う。
留学を終え、椎間板に関する研究業績を携えて神戸大学に戻った西田氏は、土井田稔氏(現 岩手医科大学整形外科学教室 主任教授)が率いる脊椎班に所属し、脊椎外科医としての一歩を踏み出すことになった。特に原発性の脊椎腫瘍症例や、脊椎への転移症例に注力した。当初は脊椎腫瘍症例は年間20例ほどであったが、脊椎班のチーフになった2010年以降、徐々に大阪や四国などからも患者が紹介されてくるようになり、年間50例を超えるようになった。
さらに、西田氏の診療の幅を広げる転機となった出会いがある。当時、神戸医療センターには脊柱変形の大家と言われた宇野耕吉氏(現・同センター院長)がいたため、神戸大学医学部附属病院でその症例を診る機会は少なかった。だが、ある日、宇野氏から西田氏に「手術に際して全身管理が難しい患者がいる。私が執刀するので大学病院で手術をさせてほしい」という申し入れがあった。これをきっかけに、西田氏は宇野氏とともに手術室に入るようになり、直接その技術を学び取っていった。これに伴い、神戸大学医学部附属病院の脊柱変形症例も増加していった。
脊椎外科専門医の不足を知り沖縄への転出を決意
神戸大学整形外科の脊椎班で幅広い経験を積んだ西田氏が、関連病院か他大学への転出を考え始めた頃、肺疾患を併発した琉球大学整形外科の患者の受け入れを、神戸医療センター経由で打診された。この患者の手術を執刀したことがきっかけとなって、転出先の候補に沖縄が加わった。
「沖縄から受け入れた患者さんの治療やフォローアップをする中で、沖縄には脊椎外科の専門医が不足していることを知りました。『それなら私が行こうか』と思ったのです。就学中の子どもがいるため単身赴任になったのですが、神戸空港や伊丹空港から飛行機が多数飛んでいるので、行き来が楽であることも好材料でした。陸路で山陰や北陸、四国に移動するよりも時間がかかりませんから」と西田氏は話す。
西田氏が着任してみると、琉球大学大学院医学研究科 整形外科学講座は「手の外科」の名門である半面、脊椎外科班のチーフは過去10年の間に5人も交代していることが分かった。また、自分より若い脊椎外科専門医が県内に9人しかいないことを知った西田氏は、改めて専門医不足を痛感したという。
現在の整形外科学講座のスタッフ数は25人、そのうち脊椎班は3人で、整形外科の病床数は40床弱。西田氏の着任以前には、本土の医療機関に送られていた高難度の脊椎疾患患者も琉球大学で受け入れるようになった。カバーする疾患領域は拡大したが、診療面や医局運営面での問題は生じていないという。「私の着任以来、当院で技術的に対応できないことを理由に他の医療機関に送った患者さんは1人もいません」と西田氏は胸を張る。「ただし1例だけ、宇野先生に来ていただき執刀をお願いしたことはありますが」(笑)とも付け加える。
研究で成果を上げ「目の前にいない患者」にも報いる
整形外科学講座の基本方針として、西田氏は「目の前の患者さんのために、目の前にいない患者さんのために」を掲げている。「『目の前の患者さん』はとは沖縄の患者さんのことで、県内で最高レベルの治療を受けていただけるように、我々個々の医師の知識や技術を高めていこうということです」と西田氏は説明する。では、「目の前にいない患者さん」とは何か。西田氏はそれを2つに分けている。
1つは、「空間的に目の前にいない」沖縄以外の患者を指す。西田氏は「本土の患者さん、海外の患者さんを、我々はなかなか診療できません。しかし研究成果を学会で発表したり、論文にまとめることで、他の医師を通して、患者さんに最高レベルの治療を提供することにつながると考えています。沖縄の整形外科医は技術偏重になりがちで、学会に参加したり、論文をまとめる習慣を身に付けていない人が多い印象があります。ですから当講座では、できるだけ早く研究に取り組める体制を構築したいと考えています」と語る。
もう1つは、「時間的に目の前にいない」患者、つまり未発症の患者や、まだ生まれていない患者を指す。「今の段階で『目の前にいない患者さん』に今後、最高レベルの治療を受けていただくには、後進を育成して技術を引き継いでいかなければなりません。また、医師1人が診られる患者さんの数は限られていますから、専門医を増やしていくことは『目の前の患者さん』のためにも必要です。さらに、現在は治療できなくても将来できるように、新たな治療方法を研究・開発することも重要です」と西田氏は言う。
一方、基本方針として明文化まではしていないが、西田氏は女性専門医の育成にも力を注いでいる。「整形外科医に占める女性の割合は全国平均で5%と言われています。整形外科は男性の領域と思われているのかもしれませんが、女性医師を増やしていく努力をしています」。
整形外科学講座では、県内の中核病院と連携強化を図っている。西田氏は着任早々から、琉球大学病院より歴史が長い病院には礼を尽くして連携関係の構築を要請してきた。研修プログラムで協力を得ることから始めて、既に連携病院を20施設にまで増やした。「県内の主要な病院はほぼ全て連携病院に入っていますから、沖縄で整形外科医になるなら、当講座に入るのが一番得策だと自負しています」と西田氏。
その西田氏は、若手医師に対してこう呼びかける。「日本の医療界では、整形外科はメジャーな診療科ではないと捉えられているかもしれません。しかし、整形外科の外来患者数は内科に次いで2番目に多いのです。小児から老人まで、外傷からスポーツ疾患、悪性腫瘍まで守備範囲も大変広く、整形外科は決してマイナーではありません。また、脊柱変形に対するダイナミックなものから、マイクロサージェリーを駆使する『手の外科』まで、様々な手術があります。海外では、欧米やアジアでも、今やトップクラスの医師でないと整形外科専門医にはなれません。
高齢化社会の中、患者さんは増える一方ですし、たとえAIが普及したとしても整形外科の需要は無くなりませんので、将来性に不安は全くありません。ぜひ、我々とともに『目の前の患者さんのために、目の前にいない患者さんのために』頑張っていきましょう」。
激務で食事を摂り損ねた医師や当直を担当する医師のため、医局に置かれた「食料ボックス」。医局秘書たちの手による、ねぎらいや感謝の言葉を伝えるポップが貼られている。
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西田 康太郎 氏
1992年鳥取大学医学部卒業。神戸大学医学部整形外科、米国ピッツバーグ大学整形外科特別研究員、神戸大学大学院医学研究科整形外科学分野 脊椎外科学部門特命教授を経て、2019年より琉球大学大学院医学研究科 整形外科学講座教授。