救急医療を未来の北陸に届ける「架け橋」になる

大学病院で唯一、救急医の専門医研修プログラムを持たなかった金沢大学附属病院に変化の兆しが見えてきた。金沢大学医薬保健研究域医学系救急・災害医学分野の教授に就任した岡島正樹氏は同大学の生え抜きで、紆余曲折の末、現職に就いた。これまでに先人、先輩、上司からの言葉を胸に、教育機関としての講座、臨床の現場である救急科を改革して、北陸で活躍する救急医の育成に注力している。研究で培った分析力をベースとした合理的な手法で、既にいくつもの成果を上げている。

金沢大学医薬保健研究域医学系救急・災害医学分野

金沢大学医薬保健研究域医学系救急・災害医学分野
医局データ
教授:岡島 正樹 氏
医局員:10人
病床数:4床(予定。現在はCOVID-19患者受け入れに充当)
関連病院:0病院(他病院からのオファーへの対応を準備中)

 2021年、金沢大学大学院医薬保健研究域医学系救急・災害医学分野の教授に岡島正樹氏が就任した。同大学附属病院では、機能強化を求められている救急科を率いる。

 金沢大学附属病院では20年ほど前、救急部に初めて教授職が置かれることになった。それ以前は、大学病院がある地名から「小立野(こだつの)診療所」と呼ばれるほど多種多様な患者を受け入れていたが、教授職を置いたのを機に、大学病院の使命に集中すべく三次救急に集中する方針に転じた。しかし、「救急搬送数が少ない」、「専門医の練習プログラムがない」などの理由から、思うように救急医志望者を集められないのが実情だった。

 そんな状況を打開し、「金沢大学を救急医育成の拠点とすること」を自らのミッションと心得る岡島氏は、病院内外の改革に意欲的に取り組んでいる。

苦手意識を克服するため循環器領域へ

 「北陸の医療の未来のために」をモットーとする岡島氏は、埼玉県出身。埼玉県立浦和高校2年生の時、パスカルの『パンセ』を読み、「人間はみな死刑囚だが、いつ執行されるかはわからないまま生きている」という内容に触れ、「命に関わる仕事に就いて、その意図に迫ろう」と、弁護士から医師に志望を変えた。岡島氏は「自分を動かした言葉が3つある」と言うが、これが1つ目である。

 金沢大学を目指した理由も3つある。当時、城内にキャンパスがある大学は世界に2つあったが、その1つが金沢大学だったこと。実家から遠いところにある大学であること。興味を持ったがんの研究施設があることだ。受験で金沢を訪れた際に見た犀川と浅野川の風情、バスから降りる女子高生が運転手に「あんやと(ありがとう)」とお礼を言う様に惚れ込んだ。1度目の受験は失敗に終わったが、「2度目の受験の決め手は、城内キャンパスと2本の川と女子高生の3つです」と岡島氏は笑う。

 医学生時代、岡島氏が唯一苦手としたのが循環器領域だった。「他は何でも理解できたのですが、不整脈の生体信号の理論だけは、どうにもなりませんでした」。それを克服するために、卒業後は循環器内科に入局した。入局後は、同期が関連病院に出てカテーテルなどの技術を磨いている一方で、岡島氏は先輩医師について血管内皮反応の研究をするように指示された。「ノーと言えない性格」を自認する岡島氏は、先輩医師が途中で離脱したにもかかわらず4年で研究をまとめ上げて臨床に復帰した。

 研究成果に対する「ご褒美」として、公立松任石川中央病院(石川県白山市)の循環器科へ派遣された岡島氏は、ここで自らを動かす2つ目の言葉を聞くことになる。念願の臨床に戻った岡島氏は、「救急搬送があったら全部、呼び出してほしい」と志願して連日、病院に泊まり込んだ。その時の上司であった久保田幸次氏は、当直のたびに「わしが当直しているのに、なんで救急車が来ないんだ。わしのところに来れば絶対に救命率が上がるのに」と嘆いていた。自信と責任感に満ちたこの言葉に、岡島氏は医師としてのあるべき姿勢を学んだという。

 この時期、臨床漬けだった岡島氏に、大学から留学の指示が出た。カナダ・モントリオール心臓研究所から、留学期間を終えて戻る医局員の代わりに、別の留学生を送ってほしいというオファーが寄せられたのだ。

 臨床現場から離れたくないという思いが強かった岡島氏は、語学に自信がなかったこともあり、初めは断っていた。だが、留学を勧める夫人に押し切られる形で、最終的に決断した。「モントリオールがあるケベック州の公用語はフランス語なので、ずっとフランス語を勉強していた妻が一番行きたかったのでしょう」と岡島氏は冗談交じりに語る。4月に生まれたばかりの第一子を含む家族同伴で、9月から留学することになるが、「妻は小児科医なので、なんとかなると思っていました」とも言う。

 「カナダでの生活で世界観が変わりました。留学してよかったと思いました」と岡島氏は振り返る。研究は定時に終わり、その後はまだ明るいので、家族と散歩も楽しめる。第二子を妊娠した夫人が産婦人科の診察を受ける日に仕事場に着くと、「何をしているんだ」と上司に叱られ、帰って夫人に付き添うよう促されることもあったという。その働き方は新鮮だった。

辞令に翻弄される中、初めての異動願い

 カナダでの生活を満喫し、留学期間の延長も考えるようになっていた岡島氏が2週間の休暇を取得しようとしていた矢先、医局から「大学に戻るように」という連絡が入った。「所属する医局の教授が亡くなり、新人事が発令される」という理由だった。金沢大学に戻った岡島氏は、古巣の循環器内科ではなく救急・集中治療部に配属された。

 様々な患者に対応しなければならない救急を担当することになり、再び病院での泊まり込みの生活が始まった。岡島氏は、上司の谷口巧氏(現・麻酔科教授)の後を付いて回り、救急医療に必要とされる手技や処置を必死で覚えていった。治療の合間には、「なぜ、先輩医師はあのようにしたのだろうか。その場合、このようにしたらどうなっただろうか」と思考訓練を続けた。

 救急に配属されて1カ月ほど経ち、岡島氏が1人で当直することになった夜、全身に刺創がある患者が搬送されてきた。とても1人では手に負えないと思い、帰宅していた先輩医師に応援を頼んだが、先輩医師が到着するまでの間、岡島氏は「わしのところに来れば絶対に救命率が上がるのに」という久保田氏の言葉を思い返していたという。「自分1人で対応できる救急医になりたい」。そう考えた岡島氏は、この日、救急の道に進むことを決めた。

 その後、岡島氏は動物を用いた心疾患遺伝子解析実験を立ち上げるために再び循環器内科に戻ることになった。だが、この期間にも搬送された救急患者を想定し、どのように処置すべきかといったシミュレーションを休むことはなかった。「この訓練を通じて、判断力、決断力を鍛えることができたと思います」と岡島氏は話す。

 実験の立ち上げが軌道に乗ったとき、岡島氏は救急への異動を第一内科・循環器班のトップだった高村雅之氏(現・循環器内科教授)に願い出た。医局からの指示でなく、自ら異動を希望したのは初めてのことだった。この異動を許可した旧第一内科(消化器内科)の金子周一氏は岡島氏に「望むと望まざるとにかかわらず、与えられた場所でとにかくベストを尽くせば、必ず報われる」というアドバイスを送った。これが岡島氏を動かす3つ目の言葉となった。

 岡島氏は以後、この言葉を忠実に守ってきた。過酷な救急の現場から医師が離れていく中、教授就任以降も最前線に立ち続けているのは、その表れだ。


救急科の処置室で治療に当たる岡島氏(中央)とスタッフ。(岡島氏提供)

 

合理的な分析から医局改革を進める

 先に触れたように、金沢大学では救急医を目指す若手医師を思うように集められずにきた。「救急医を目指すなら、大学病院より救急搬送数が多い石川県立中央病院の方がいい」と公然と話す声が、岡島氏にも聞こえてきた。「過去20年、金沢大学で救急を自ら志した医師は1人しかいませんでした。その医師も3年経たずに辞めてしまいました。みな他の病院で救急医を目指しています」。

 こうした状況を受け、岡島氏は教授就任直後から、救急医志望者を増やすための取り組みに着手した。手始めに、研修医を入局させるために徹底した調査を実施した。医学生に救急を選ばない理由を聞くと、「救急搬送数が少ない」、「専門医の研修プログラムがない」、「授業や単位認定が難しいので、入局後も大変な思いをしそうだ」、「先輩や同期が入局を避けているから」といった答えが返ってきた。

 そこで岡島氏は、救急搬送数を増やす条件を明確にするために、救急現場と他の専門診療科の医師や看護師、消防署の救急隊にヒアリングを行った。その結果、救急現場からは「救急搬送された患者の処置を終えた後、スムーズに院内の集中治療部や専門診療科、他の医療機関へと転床、転院させられない」、専門診療科からは「管理している病棟の病床コントロールが難しくなる」、救急隊からは「断られる確率が高いので、受け入れ要請を積極的には行っていない」という声が上がってきた。

 このため岡島氏は、かつての上司である集中治療部の谷口氏と循環器内科の高村氏に相談し、救急搬送数を増やすために連携強化を図り、同様に他の専門診療科とも調整を行った。生え抜きの教授ならではの成果といえる。消防の救急隊には積極的に受け入れる体制を構築した旨を伝え、搬送数を増やしてもらえるよう要請した。「救急隊には私の勤務スケジュールを伝え、私が担当する日には救急の患者さんをどんどん運んでほしいと伝えました」と岡島氏。かつての久保田氏の言葉を彷彿させるコメントである。

 これらの対応が奏功し、コロナ禍で救急搬送の全体件数が減っている中、金沢大学附属病院への搬送数は増えている。「PRAD(Perfect Responses to Ambulance Demand)2000というキャッチフレーズを掲げて、年間の救急搬送数2000件を目指しています」と岡島氏は意気込む。

 全国の大学病院で唯一、救急医の専門医研修プログラムを持たなかった点の改善にも着手した。「これまでは救急専門医の養成を石川県立中央病院に任せる形になっていましたが、そもそも人材育成は大学の使命です。金沢大学附属病院でも救急医の専門医研修が可能になるよう、独自にプログラムの作成を進めています」と岡島氏。また、重傷者を搬送するためのドクターカーのプロジェクトも検討しているという。


岡島氏(左)と救急科のスタッフたち。中央の研修医を挟んで右が副科長の前田哲生氏。(岡島氏提供)

 

「北陸が必要とする救急医」の養成に取り組む

  救急搬送数の増加や専門医研修プログラムの整備に尽力することで、まずは医局員の増員を目指す岡島氏だが、教育や研究方針についても明確なビジョンを持っている。「北陸には良い意味でも悪い意味でも、古い習慣を守る気質があります。セクショナリズムが強いのも、その表れでしょう。救急医は院内の各科・部や消防との間にいて、その境界を埋める “隙間産業”だと私は言っています。この隙間産業のスペシャリストを養成していきたい。別の言い方をすれば、様々な楽器パートを束ねるオーケストラの指揮者のような救急医を育てたいのです」。

 また、北陸ではどの医療機関も救急医を必要としているが、外科的処置のエキスパートであったり高度な全身管理ができる人材であったりと、それぞれが求めるニーズには違いがある。それらにニーズに柔軟に対応できる救急医を育てたいという思いもある。岡島氏は「派遣を要請されるたびに、そこに合った人材を探すのではなく、一人前になった者から派遣して、その先で必要な役割を果たせるようになることが理想です。スライムのように相手先の救急部の穴を埋められれば何よりです」と言う。

 そして研究。岡島氏は自らの経験を基に、その重要性をこう語る。「私は臨床を離れていた時期も、診断、治療のシミュレーションを通して判断力や決断力を鍛えてきました。これができるようになったのは、研究活動で培った分析力のたまものだと思っています。だからできるだけ早く、医局員に対しては、研究に取り組める環境を提供したいと考えています」。

 「救急医療を未来の北陸へ届ける架け橋になりたい」。こう話す岡島氏は、自らを動かすことになった3つの言葉を胸に、日々新しいチャレンジに取り組んでいる。まさに、与えられた場所でベストを尽くしているのだ。


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岡島 正樹 氏

1996年金沢大学医学部卒業。金沢大学医学部附属病院第一内科、金沢市立病院内科、金沢大学医学部附属病院第一内科循環器班、公立松任石川中央病院循環器科、カナダ・モントリオール心臓研究所生理学フェロー、金沢大学医学部附属病院救急部・集中治療部、同第一内科循環器班、同循環器内科、金沢大学大学院医学系研究科恒常性制御学、金沢大学附属病院循環器内科、同救急部・集中治療部、同COVID-19特殊診療チーム初代リーダーを経て、2021年より金沢大学医薬保健研究域医学系救急・災害医学分野教授。

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